第368号 令和6年3月17日雑感(令和6年3月17日) | 生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

生観日記(奈落の罪 ~自己を見つめて~)

人間とは何か?正解はあるのか?悪と共存する私の心は果たして救われるのか?自己を被写体として筆を綴った日記。ひしげる心、メンタル面の変化を見つめ、死後も何かを訴え続けたい。



令和6年3月17日(日)
久しぶりの投稿である。先月は母の一周忌を
終え、一応世間的には一区切りということに
なるが、未だに心の整理が付かない自分がい
る。「ああしておけば良かった」だの「もっと
会話をしておけば良かった」だのと後悔が尽
きない。こうした気持ちは、家族を亡くした
人々が概ね抱く心境のようだから、取り立て
て不思議なことではないが、私自身の環境下
では母との関係が色々な意味で極めて濃かっ
ただけに幽冥界を異にした今、若干の心の穴
が開いている。

しかし、世の中にはもっと過酷な家庭環境で
生きて来た人も少なくはない。以下に貼付し
た女性芸人の柳原可奈子氏も若い頃に両親を
失っている。頼る人がいないという状況の中
でも前向きに生き、その後の人生で多くの出
会いを無駄にすることなくチャレンジした結
果、他人の笑顔を作る仕事に従事し、今では
幸せな自分の家族を得るまでになった。
(令和6年2月4日、スポニチ記事から)

更に直近で言えば能登半島地震で一瞬にして
愛する家族を失い、希望も夢も消えてしまい
ながらも、それでもなお亡くなってしまった
家族の分まで頑張って生きようとする力強い
人間の姿に感銘を受けた。目に止まったのが
正月帰りで集まった家族5人の中、一人生き
残った中島さん。同じく、妻と子の全てを失
ってしまった大間さん。きっと毎日毎日が後
悔の連続であり、時間を戻せるなら、という
強い気持ちがあるに違いない。こうした家族
があちらこちらで発生している。このような
記事が耳目に触れれば、否応なく私の悲しみ
など宙に吹き飛んでしまうのである。
(令和6年2月1日、読売新聞の記事から)

(令和6年1月14日、北國新聞記事から)

「生きるとは何か」、という問いを私自身、
この年齢になっても思考し続けている。そこ
で分かったのは、人間それぞれの『生』の時
間の中で、それぞれの出来事の違いがこの瞬
間に起こっているという至極当たり前の確認
だった。とかく、今自分が思っていることが
同じように他人も思っているとの錯覚が心の
ズレを生む。

例えば、この瞬間に人生の絶望を味わってい
る渦中の人がいれば、反対にメジャーリーガ
ーの大谷翔平氏のように結婚という人生の希
望に満ちた環境下の人もいる。だが、人生の
中で、誰がいつ希望と絶望が逆転してしまう
かも知れないという脆弱さの中を生きている
のが我々だ。著名人の場合、ひと度歯車が狂
えば、世間の掌返しは凄まじいものがあるし
、逃げるに逃げれない。本人だけではなく、
家族や会社の人々、取引先にも甚大な迷惑を
かけてしまう。

いずれにしても、こうした当たり前のことが
他人との距離感がないとマイナス思考はどん
どんと膨らみ、逆恨みのような思考に陥るも
のだ。特に日本人は他者との比較によって自
分の幸福度を測るので、大谷翔平のような遠
い存在ならまだしも、身近に存在する人だと
より不平等感は増す。他人との距離感で言え
ば、人の好き・嫌いも左右されるだろう。私
自身も好き・嫌い、合う・合わない人がいる
。だが、私がその人を嫌いだから言って、必
ずしも悪人ではない。その人は誰かに愛され
、誰かに頼りにされているものだ。その人に
とっては大切な人なのだ。それを忘れたらダ
メだと思う。人間は皆、ベクトルが違う。思
想信条が異なるだけではなく、心を動かされ
る内容も違う。

また、人間は組織で動いていることが多い為
、その所属する組織内の性格もあるので、少
なからず個人の信条を曲げることがある。そ
こには多かれ少なかれ『偽善』が生じると私
は思う。人間社会は『集団社会』である。そ
の組織のルールが存在するし、考え方も存在
する。当然個人としてはデメリットだ。そこ
で党則とか社規則で折り合いをつける。

やはり、あくまでも自分が体験しなければな
らないことはある。それが希望でも絶望でも
だ。同時にそれがこの瞬間、他人と真逆とい
うことも自然に起こり得る。自他の幸・不幸
はそれぞれの縁とタイミングで循環している
ものなのだ。不幸だけの記憶が強いと必ずそ
ちらに心は引っ張られていく。何気なく街で
すれ違う人も、それぞれの縁とタイミングで
塗炭の苦しみを今味わっている人、過去味わ
った人もいることだろう。自分だけが理不尽
な目に遭っているという視野の狭い気持ちで
はなかなかマイナス思考から脱出出来ないか
も知れないし、優しさの醸成は不可能だ。私
自身、昔は自分のことで精一杯だった。他者
に対する優しさなど皆無だったと思う。

毎日のように絶望して自ら命を捨てる人もい
る。時折、私のこの日記ブログを読んでくれ
ている人ならご承知かと思うが、私の義父も
平成6年6月4日に自死してしまった。また
、私の知人の身の周りでも2人自死している
ので、自死というのは遠い出来事ではない。
最近の発表されている自殺者数を見ると、
令和5年 21818人
令和4年 21881人
令和3年 21007人
令和2年 21081人
令和1年(平成31年)20169人
となっており、たった5年間で我が国は10
万人以上の自殺者が現実いるということなの
だ。この数字は遺書が存在している人々なの
で、実際は更に自殺者は存在するだろう。従
って自殺問題は遠い出来事ではなく、自分の
家族や知り合いが亡くなっているという人が
大半になって来ている。

『死』というのが本当に身近にあるにもかか
わらず、日頃の生活において人は死を忌み嫌
い、考えないようにしているように思う。ロ
シアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ
(ハマス)は現在も激しい戦闘状態で、毎日
のように大切な家族が死んでいる。

世界の認識では、命よりも大事なもの、大切
な価値が存在する。私の最大のテーマは何か
と問われたら『死』である。人間、100%
避けることが出来ないことにもかかわらず、
何故か考えないように振る舞っているのが日
本人だ。死が深刻かどうかは別として、また
は死後の世界がどうかも別として、この避け
難いことを意識せずに、永遠に生き続けるよ
うな印象を何処かで作っている。そこに欺瞞
や偽善が隠されている。

一時期、健康ブームがあった。あの食品、こ
の食品、これは体に良い・悪い等など。勿論
暴飲暴食は別としても、果たして一部の専門
家が悪いと言う食品を口にして、それを口に
しなかった人とどれだけの寿命に差があるの
だろうか。その差が数年の誤差ならば私は好
きな物を口にするだろう。頑張って頑張って
その結果が数日間や数年だったとしたら個人
的にはアホらしい。勿論、こんな思いを他人
には口にしない。血糖値が高くて薬を服用し
ている私が言えば集中攻撃を浴びる。

次に目にするのが内閣や政治家の問題だ。こ
うした問題はいつの時代もどこの国でもある
ことだろう。何故かと言えば、政治問題とい
うのは少なくとも自分の生活に直結している
からだ。他人に自分の生き方をある程度預け
ているようなものだ。従って、右左の思想信
条は別としても、殆どの国民は政治家に対し
て厳しい眼を向けている。だが、大半の人は
毎日仕事に忙しく、余程時間的に余裕のある
人でないと政党や政治家の集会のような場所
には行かないし、インターネットでの個別動
画なども視聴しない。保守でもリベラルでも
一定の主張がある動画はそれに同調する人の
独壇場になっている為、本当の広がりになら
ない気がする。選挙で票になるかも分からな
い。しかし、何事も初めなければ変わらない
。既存の政治姿勢ではなく、新しい勢力は必
要だろう。それもこれも以下の記事から読み
取れる。

(令和6年2月18日、毎日新聞記事から)


(令和6年3月14日、時事通信社記事)

(令和6年3月14日、産経新聞記事から)

(令和6年3月15日、産経新聞記事から)

このように、自民党の裏金問題や女性ダンサ
ーを呼んでの政治活動が世間の政治に関する
関心を低下させ、逆にそれが投票率の低下と
なって、結局は選挙で自民党が勝つという結
果になっている。私は自民党から日本共産党
、あるいは最近出来た政治団体までの殆どの
人は、この国がどうなっても良いなどとは思
ってないと信じている。にもかかわらず30
年もの間、我が国の経済は停滞し、大企業は
かつてないほど景気は良く、株価も上がって
いて株主は相当儲かっているのに給与は上が
らず人手不足、何故格差が広がっているのか
。どうして中小企業の非正規・準社員採用が
溢れているのか。

議員の日頃の相手は大企業のトップである。
こうした人物の話しを聞いていれば、間違い
なく実態から離れていくだろう。政治家個人
も、ある一定の生活スタイルの人々としか交
流がないだろうから、視点が限られて来る。
人間は、自分の周囲の人から強い影響を受け
るので、顔も名前も知らない人々の生活実態
には興味ないか、違うことを言っているとさ
え思ってしまうだろう。

企業にしろ政党にしろ、大枠として似たよう
な感覚の人が集まってしまうものだ。その中
で「それって、別の考え方もあるのでは?」
とはなかなか言えないものだ。従って、私も
「この政党、政治家の考え方良いな」と思っ
ても、全てが一致するわけではないので個別
に支援するとか、党員になると言う選択はし
ない。大概、経済政策に共鳴しても国防政策
で一致しないことが多い。その逆の政党もあ
る。北朝鮮拉致事件についても壊れたレコー
ド盤のように「政府の最重要課題」、「待った
なしの問題」と言いながら停止しているよう
に見える。水面下ではやっているのだろうが
、独立国家ではないので常に米国の許可が必
要という事態だろう。

今、自民党の世耕議員に党内からも批判が上
がっている。深層は本人しか分からないとは
思うが、政治倫理審査会での発言にウソを言
っているのではないかとジャーナリストや国
民から思われている。もともと政治家になる
人は口が達者なので、次から次と言葉が出て
来て、それを私のような学歴も教養もない人
間が聴くと、「世耕さん、正しいこと喋って
いるじゃないか。皆、審査会を拒否する中、
本当は誠実な人なのでは?」と思って見てし
まう。実際、そう思ってしまった。まだ私は
人を見る眼がない。

一つ言えることは、裏金を作っていたことや
それが脱税であると言う認識が途中からあっ
たとしても、当然、安倍晋三議員が現金給付
をやめるとした時点でその理由は明らかなの
で、世耕議員の立場で認識はあったはずと私
も思う。思うが、きっと本人の心情の中で、
「これは裏金ではないんだ。裏金であるはず
がない」と言う期待が強いだけに、事実の解
釈を変えてしまったのだろうと思う。従って
、矛盾が生じる。更に曖昧な法で形作られて
いるので、罪の意識も希薄なのだろう。

この『事実の解釈』は別の問題でも起こって
いる。以下の写真は参議院予算委員会での山
本太郎議員の質疑である。人気経済学者の成
田悠輔氏の発言で山本議員は省庁が彼を広告
に起用することを厳しく批判したもの。彼の
発言は写真の通りである。
(令和6年3月15日、参議院予算委員会)

この発言は先ず事実として、その解釈におい
て世間の人々の受取り方は様々だ。X(旧ツ
イッター)を見てみると山本議員がこの問題
を国会で取り上げたことに肯定と否定がある

(Xからの投稿、山本議員に肯定)

(Xからの投稿、山本議員に否定)

ある意味で、これが民主主義の正しい姿なの
だと思う。肯定もあれば否定もある。ここで
は、成田悠輔氏の言葉の意味を汲めば国会で
取り上げる必要はないと解釈した人は山本議
員に否定的だった。確かに、深く推察すれば
成田悠輔氏が心から高齢者に対して何か一定
の差別意識がそもそも存在していたとは感じ
ないだろう。一方で、テレビに出演して、社
会に一定の影響力がある成田氏の言動は、そ
こまで深く人々が俯瞰することはなく、その
言葉を素直に受けるだろうから、山本議員が
国会で取り上げるのもやむを得ないし、岸田
総理の「不適切だと思う」と言うのもその通
りだろうとなろう。

問題は、国会で取り上げたことで、テレビを
見ない、または成田悠輔という人物を知らな
い人にまで成田氏という人物が一定の思想が
あると誤認される可能性があることだ。山本
議員自身も、かつて島根県竹島の問題で、本
心とは異なるレッテルを貼られて攻撃をされ
た側だ。こうして見ると、それぞれの組織や
集団、個人において思うところ、感じるとこ
ろを表現するのは難しいということと、個人
レベルだけではなく、その人に近寄る人の思
惑も重なって成田氏や山本議員に言わせてい
る場合もある。

同時に、自民党や公明党による裏金、還流の
問題、議員個人の問題、芸能界や角界の問題
の陰に隠れて徐々に進行する日本を巻込んだ
パンデミック条約の成立が目の前に迫ってい
る。この条約によって、日本社会は大きく社
会正義の名の下に政治権力(公権力)を使っ
て国民の自由を制限する可能性があると心配
している。金儲けの為の世界秩序を本当に成
し遂げたい場合、多少の政治的犠牲をも厭わ
ないだろうし、世間の耳目をそちらに集中さ
せておくことは十分考えられる。これは日本
だけではなく、世界中で一斉に社会システム
とか政策として落とし込まれていく。日本の
ように大東亜戦争に敗れた後、令和6年現在
も本当の意味で自主独立出来ない偽物の三権
分立体制で、しかもエネルギー資源を外国に
頼っている以上、日本人の生活は全て外国に
握られていると言っても過言ではない。

確かに、昭和20年8月15日、ラジオから
流れる昭和天皇の言葉を拝した人々の心から
の涙は、ある意味で日本の将来、いわゆる連
合国の支配を是認せざる得ない悲壮な決意が
あったに違いないのだ。だからこそ、当時の
日本政府と官僚は表向きは独立したように見
せ、本当は未だに外国の支配を受け続けるよ
うな条約や協定を結んでしまったに違いない
のだ。

だが、悲しいかな、日本の戦力からしてどう
しようもなかったと思うのだ。昭和30年代
から50年代初頭にかけて、極左暴力集団と
呼ばれる者たちが安保反対運動を起こし、そ
の一部は暴徒化し、一部は地下に潜り爆弾を
製造して国民を殺した。考えて見ればおかし
な話しで、反戦運動という人命尊重を主とす
る集団にもかかわらず、爆弾を製造してテロ
を起こしたのだ。矛盾してないか。安保反対
なら、それを推進する政治家を選挙で落とす
運動の方が早い。だが、政官業の利権国家で
は難しかったのだろう。

仮に、昭和天皇があの時に戦争を続けていた
ら、父や母も存在せず、当然私もいない。日
本そのものが無かったと思うのだ。従って、
一定の米国による支配は仕方ないと私は思う
。しかし、問題は日本の政治家が外国と交渉
が苦手、したがらないという情けなさだと思
う。官僚(役人)は一度入省すれば余計な発
言はしないし、属国体制の方が定年まで安心
出来るだろう。与えられたことを粛々とやる
のが官僚、役人の仕事だ。問題は日本の問題
を日本人が役人に与えるのではなく、外国勢
力が与えているようなものだ。だから、心あ
る政治家の行動を妨害する場合もある。その
意味で官僚には期待出来ないが、政治家は違
う。不正選挙がないとしたら、その地域地域
の選挙区から選ばれた人物が国会に行く。背
負うものは官僚と同じではないはず。

縷々書いたが、疲れたので一旦〆る。

(つづく)