たむらの日記~1日も早く被災した方達の心に桜が咲きますように~ -17ページ目

東北地方太平洋沖地震:5


その間にも余震は続き風も強くなってきたので、オニギリ・水・着替えなどを持って急いで実家に戻りました。

この日は実家~自宅までの道のりの信号はだいぶ復旧していて安心しました、やっぱり信号の消えている道路は怖い…。

4日ぶりの白米(オニギリだけど…)めちゃくちゃものすごく美味しかったです。

その日の夜19時前に、東松島市に住んでいて津波の被害に遭い連絡が取れなかった友達から電話がきました。小学校からの友達で、地震が起きる2日前にもうちに泊まりにきていて、夫とも仲良しの友達なので連絡が取れない間は心配で心配で、電話をもらったときは涙が出ました。

無事でヨカッタ…。家は津波がきて1階はめちゃくちゃだと言っていましたが、今は家族と猫2匹でおばあちゃんの家に避難しているようでした。

亡くなった方や家族を亡くした方、家を無くした方など大変な状況におかれている方がたくさんいるので簡単に命があるだけよかったとは言えないけれど、本当に本当に生きていてくれてよかった…。

安心して布団に入りましたが、突然玄関のドアを激しく叩く音が聞こえて飛び起きました。夫が様子を見に行くと誰もいません…。 ???と思っていると、すぐ近くで「家間違えちゃった~」って声が…間違えてもいいけど謝っていけ~!!!

しかし、その騒動で街灯とバス停の電気が付いていることに気付きました。すぐにブレーカーを上げて玄関の照明を付けると眩しいくらいに明るく照らされました。

思わず家族4人で拍手~。家の中が明るい…。すぐにテレビを付けて食い入るように見ました。こんなに酷い状況だとは思っていなかった母は口を押さえて震えていました。

地震の翌日から特別態勢紙面として新聞は来ていましたが、やっぱりテレビで見るのとは違いますね。

この日は電気が復旧したけど節電を呼びかけていましたが、蛍光灯の豆電球だけつけて布団に入りました。豆電球の小さな明かりでもホッとしましたが、救急車のサイレンやヘリコプターが飛ぶ音に慣れることはなく、余震に怯えながら眠りにつきました。

どんより曇った3月15日。あの日から5日目の朝。電気が復旧したからスタンドもやっているんじゃないかと思い、家の近くのスタンドへ行ってみました。するとすでに大行列でした。しかも、ガス臭いような変な臭いが漂っていて具合が悪くなりました。臭いに敏感な私は先に歩いて家に帰ることにしました。



続く

東北地方太平洋沖地震:4


勾当台公園には山形行きの高速バスを待つ長い列が出来ていました。それを撮影するTVカメラも来ていました。

2時間くらい経った頃、不安は的中。スタンドの方が『本日売切』の手書きボードを持って1台1台お詫びに回って来ました。前の車の人が「少しでいいから頼むよ~」と言っていましたが「申し訳ありません」と深く頭を下げていました。他のスタンドも売切でした。

私達も諦めてまた兄達のいる避難所へ戻ろうかと思いましたが、私達の家は無事だし電気も仙台駅付近まで通っているからもうすぐ来るだろうということで、お水を8リットル叔父からもらい実家に戻りました。

その日の夜もキャンプ用の懐中電灯をつけてカップ麺を食べました。乾電池の買い置きがなかったので食事が終わったらロウソクにして1本が消えそうになった所で眠ることにしました。3月13日、あの地震から3日目の夜です。

この3日間、夜も容赦なく余震は続き辺りも真っ暗なので怖かったし、いつでも避難できるようにコートもマフラーも帽子もかぶったまま、ラジオもメガネもかけたまま寝ていました。

3月14日の朝、この日は近くのショッピングセンターと生協に母と買い出しに行きました。夫は自宅のマンションの屋上に貯水タンクがあるので、水が出るかもと自宅に向かいました。

ショッピングセンターに着くと八百屋さんや魚屋さんが入っているお店の前に列が出来ていました。お店の中には入れないし何が買えるかわからないけど、八百屋と魚屋とそれぞれ列が出来ていたので母と別れて並びました。私は魚屋さんの方に並び茶碗蒸しやもずく、母は八百屋さんの方でトマトやレタスやきゅうり、いちごやみかんを買うことができました。

生協では1人3点までで、カップ麺やパンなどは売り切れていてお菓子とインスタントの味噌汁しか買えませんでした。

その頃夫も自宅から戻って迎えに来てくれました。「電気通ってた!」と若干興奮気味に言いました。13日の23時頃に復旧したとマンションの1階にある会社事務所のおばさんが教えてくれたそうです。

電気が通ったってことはご飯炊けるじゃん!ってことで夫と2人で自宅に戻り、ご飯を10合炊いてオニギリを作りました。

ご飯が炊けるまでの間、4日ぶりにTVが見れましたが震災後初めて目で今の状況を確認することができました。

10km先の町が津波で消えていて、とても現実に起こったこととは思えませんでした。



続く

東北地方太平洋沖地震:3


私は2日目の夜のカップ麺の味は一生忘れないと思います。

この時もう携帯の充電は切れていました。

近所の方が集会所のトイレは水が流れると教えてくれたので行ってみました。そこの集会所は町内会や子供会などで使う場所で昔から会長を務める方や役員の方達が集まっていました。でもなんだか感じ悪い雰囲気で「トイレお借りしてもよろしいですか」と聞いても無視…。丁度帰ろうとした人がこっそり「トイレは一番奥にあるから行ってらっしゃい」と言ってくれました。トイレへの通路で「こんばんは」と挨拶しても皆無視…晩ご飯の時間だったらしくオニギリや温かいお蕎麦などを運んでいるのが見えました。どこからかは毛布やカイロ、ちくわなどの差し入れが来ているのも見ました、が、そんな情報は回ってこなかった…うちの両親も毎月町内会費払っているのに…トイレが使えることも水が出ることも炊き出しあることも何も情報がなく、役員の方達の家族や親しい人だけ集会所に避難しているようでした。10日経った今も町内会の安否確認来ていません。なんのための町内会なのか…なんのための町内会費なんのか…。

怒りを抑えつつ、暖かい布団にもぐりました。うとうとしていた21時頃、会社の人達と数km離れた所に避難していた兄が心配して自転車で来てくれました。色々話している最中、また携帯の緊急地震速報が鳴り強い地震が来ました。そしてまた車に逃げました。

そして兄の提案で兄が避難している所へ皆で行くことにしました。兄の会社の社長は私の父の弟なので兄と私の叔父にあたる人です。そこの地区の集会所では発電機を使ってライトを照らし、和気あいあいとしていました。周りの方達も親切でトイレも案内してくれたし、携帯の充電もしてくれたし温かい飲み物まで出してくれました。実家の町内会とは大違い…

次の日の朝は近くの小学校へ朝ご飯をもらいに行きました。この日はカロリーメイトと飲み物だけでしたが、体育館にたくさんの人が避難していたのに余所者の私達にも優しく接して下さいました。

頂いたカロリーメイトを食べた後、スタンドが開いていないか偵察に行った兄から仙台駅付近は電気が来ててスタンドも開いている所があると連絡が来たので私達も向かいました。

NHKの向かい側付近のスタンドに向うとすでに長蛇の列で私達もすぐに最後尾を探しました。最後尾は県庁の裏のほうでした。こんなに車が並んでいて入れられるのか不安でした。



続く