前回の続きです。

 

 

 

福江港に着いたら、その先どうするのか見通しが立たないまま、行き当たりばったりでのりこんだフェリー太古。

 

 

上五島の若松大橋を船から楽しんでる・・・。

場合じゃないですよね。ホントは。

 

ただ今さらジタバタしてもね・・・。既にLINEでは東京の叔母宛に福江港に向かって居る旨、伝えてあります。

そして、五島市在住(叔母の家の近所)の"いとこ"(私の父の兄弟たちからみて母方の従兄弟)が遺体の引き取りからお通夜、お墓への納骨まで引き受けて下さっているとも、フェリー太古乗船中に東京から連絡がありました。

 

どうやら、お通夜は五島市内のどこかしらの葬儀業者の会場で営まれている様子。「今さらジタバタしても」とはイイながらも"いとこ"の連絡先や五島市内の葬儀場はフェリーの中からスマホで検索したりしていました。

 

フェリーを降りたら葬儀場に電話しまくるしかないなぁ・・・。それでもみつからなきゃそれまで。

母は葬儀場が判らないまま、喪服に着替えました。

それに続いて私も。船にシャワールームがついていたので助かりました。シャワーは使わなかったけど。

 

幸か不幸か検索したら、"いとこ"の自宅電話番号がネット上の電話帳に載っているのが見つかりました。

ただし、名前とか番地以外の住所まで載っている様な古い電話帳。今も回線が生きているかどうか・・・。

それに自宅にどなたかご家族が留守番されてなければ、会場に居る"いとこ"に連絡がつかないことに変わり在りません。

 

とにかく昔の電話番号のご自宅へ掛けてみよう。そう思った瞬間、LINEの着信音がしました。東京の叔母からです。

"いとこ"の携帯電話番号を知らせるものでした。

フェリー内でジタバタしてるの、どこかで見てた?

そんなタイムリーな連絡でした。母がその番号へ電話したのが早かったか、フェリーの「福江港到着」アナウンスが早かったか・・・。

 

とにかく、上陸直前になってようやく6月8日の夜が明けた。私たちにとっては救いの報でした。

恥をかくとか、嫌われるとか、空振りは覚悟の上でしたが、葬儀屋に電話かけまくり作戦では四方八方無関係な方にまでご迷惑をお掛けしてしまうので、これが回避出来たのは本当にさいわいでした。ありがたいことでした。

 

フェリー太古は、ほぼ定刻の8時15分ころ福江港に到着しました。

 

すぐにタクシーへ乗り換えます。"いとこ"から電話でうかがった葬儀場は島内を走る多くの路線バスが通る通り沿いでした。

結果的には時間も充分間に合っていたし、不要な荷物を福江港でコインロッカーに入れ、身軽になってバスで行く方法もあったのですが、さすがにそこまで冷静な判断も出来ませんでした。

ここまで、どこへ行くのかハッキリしないまま、とにかく前へ前へと進んできたので、焦っていたと言えば焦っていたのだと思います。

 

フェリーからの連絡通路を歩いていると、2~3台のタクシーが見えました。今思えばやっぱり焦りの気持ちがあったんですね。

「今居るタクシーに間に合うか?次のタクシーを待つことになるのか?」そんな気持ちでタクシー乗り場へ一直線?

 

車ダッシュ

 

さっき見えていた一番後ろのタクシーに間に合いました。

 

葬儀場に着くと"いとこ"ファミリーが玄関の外まで迎えに出て下さっていました。

フェリーが着く前に電話したのに、ずっと外で・・・?

 

というか、私も母も、タクシーを降りた時点では葬儀場の職員さんが「来場者」を案内して下さっているものだと思っていました。「お世話になりますぅ~」・・・て、間違いでは無いにしても、なんというか・・・。軽いよね。

本来なら私たちの方が葬儀を行うべき「本家」側。故人は私の父の姉で、葬儀を手配して下さっているのは故人の母方の"いとこ"なのですから。

 

 

ねぎねぎ6歳、叔母は43歳かな?

 

 

父が胃がんで入院していた時に徳島まで来てくれた時の叔母。

(2005年3月 四国霊場一番札所霊山寺にて)

 

叔母宅の屋根の上(2008年8月)

大阪の叔父と一緒に屋根瓦を再塗装しました。このとき山口の叔父も帰省していて、二人の叔父と、大宝寺や大瀬崎灯台など島内の観光にも連れて行ってもらっているのですが、この年の五島では叔母には会った記憶がないので、生前の叔母に会ったのは先ほどの写真の2005年、叔母が徳島へ来てくれた時が最後だったかと思います。詳しくは追求しませんが、2008年には病院か施設へ入所していた筈です。

 

写真でも見てとれる通り、私や母のイメージの叔母はずっと「ふくよか」な方でした。

 

棺の中の叔母はやつれていました。母は「まるで別人の様」と言っていました。母も多分2005年以来だと思います。

ただ、表情が穏やかだったのには救われました。

"いとこ"から聴いたところによると、宅老所からその時が近く、家族へ連絡を・・・という過程を経て、そうは言っても兄弟は皆遠方に在住でそれぞれ高齢・・・。傍で看取る人が誰も居ないまま、宅老所で眠るように亡くなった様です。

 

叔母の棺に手をあわせたのが朝9時前だったでしょうか。

葬儀場から火葬場へ出発する出棺の時刻は11時の予定とうかがっております。

(前夜、叔母からLINEできいていたのは10時予定だった様に思います)

 

私たちが葬儀場に来てから出棺までのおよそ2時間半、葬儀場の部屋に出入りしたのは私と母と"いとこ"親子4人の計6人。葬儀場の職員さん方も出棺前に来て下さって出棺時の見送りと火葬場への運転・引き継ぎをして下さったのみでした。

 

私の父と"いとこ"はいとこ同士ということになりますし、父が生きていて一緒に葬儀場に来ていれば、久しぶりのいとこ同士の再会に話しも弾んだことと思います。

 

ただ、私も母も、大変失礼ながらお世話して下さっている"いとこ"すら、「初めまして」とも「お久しぶりです」とも曖昧で、子どもの頃に父に連れられて会っているのだろうとは思いますが、遠い記憶を辿ったところで会ったことがある人よりも祖父・祖母、亡くなった叔母のほかは五島や三井楽の「場所」ばかりしか記憶からは出てきません。

 

父を介して会ったことがある程度なのは"いとこ"の記憶でも同様かと思います。

「遠くから大変だったでしょう」とか

「お仕事は休んでも大丈夫だった?」とか

よそ行き・・・?な会話でなんとなくお互いに気まずい様な2時間半でした。

 

母はそれでもしつこい位に「耳が遠いもので、大きな声でごめんなさい」と繰り返していました。

「ごめんなさい」って一見謙虚ではあると思うのですが、余りに頻繁に言われてもイヤミととらえられかねません。

私は「ありがとう」という感謝の形で示した方が人間関係は円滑に行く様に思います。謝られる以上に感謝される方が嬉しいから。

なので、母にはあとで言いました。「"ごめんなさい"は最初と最後にでも言っておけばいい。申し訳ないという気持ちを示すと相手も恐縮させてしまうから。」「でも、今回に限っては"しつこい"とは思わなかったし、多分"いとこ"も話しやすくなったとおもうし、私も助かったよ。ありがたかったよ。」

 

この様な言い方をすると、上から目線とか、何様?って思われるかもしれませんが、実際のところ母の「耳が遠い」言い訳が場雰囲気を軟化させた様に感じました。"いとこ"は母に聴き取れる様に、理解出来る様に一生懸命に話してくれていました。

私一人で行ってたら、お墓への納骨とか"いとこ"の自宅で着替えさせてもらえることは無かったかも知れませんし、叔母や父のこと、祖父、祖母のことを話してもらえなかった様に思います。

 

"いとこ"ファミリー4人だけで静かに見送って下さる想定で引き受けて下さっていた様ですすが、押しかけていった格好です。

東京の叔母も私たちが突然訪れることで"いとこ"にご迷惑になることを心配しておられた様でした。

なので出棺までお見送り出来れば、そのままタクシーで福江港まで戻ることも想定していました。

葬儀場へ受け入れて下さったこと自体とても有り難いことでしたが、このあとの火葬や納骨までの同行も受け入れて下さいました。"いとこ"にうかがったお話では、叔母のご近所さんには叔母が亡くなったことを知らせていないということでした。

お香は葬儀場で用意して下さっていた様で、焼香はさせて頂きましたが、お寺さんにもお世話にならない、小さな小さなお見送りでした。

 

"いとこ"からは叔母の死亡診断書や葬儀場の見積書や葬儀の進行手順書の様な物もみせて頂きました。

手順書には「写真を持つ人」「棺を持つ人」「霊柩車に同乗する人」など喪主や参列者の役割分担が書かれていました。

"いとこ"もおっしゃっていたのですが「写真が無い」のが唯一の心残りとなったかな。

戒名が無いことにやや罪悪感や自分の無力感も感じますが・・・。

 

ただ、"いとこ"のお話をお話をうかがっているとそこまでの余裕も無かった様でした。いとこですので、金銭的な負担をかけさせる訳にはいきませんが、時間的にも余裕が無かった様です。

宅老所でも直系の家族が近くに居ないことを不安に思っていたのかも知れません。宅老所からは遺体の引き取りを急かされたそうです。直ちに葬儀業者に依頼したそうですが、業者よりも先に宅老所に駆けつけて下さったとのこと。

前回のブログでお話させて頂いた様に、叔母はろう者です。島では障がい者を受け入れてくれる施設は多くない。そういうお話も伺うことが出来ました。施設に入る時には受け入れ先を色々探して下さった様でした。また、「たぶん"転んだ"などと言い訳をするだろうから」と施設には追求しなかったとのことですが、叔母の顔にアザがあったこともあったそうです。

 

叔母が入所した最初の施設は亡くなった時の宅老所とは別の施設で、"いとこ"の長女が以前の施設で叔母のお世話をして下さっていた様です。甥である私から言うのも恐れ多いですが、叔母にとってはそうしたご縁が支えになっていたのは幸いだったことと思います。入所当初は自宅へ帰りたがっていたそうですが、慣れてからは、施設に居ることが大好きだった様子。

 

11時。葬儀場玄関で出発していく霊柩車をゆっくりとお見送りする間もなく雨の中を"いとこ"のクルマに同乗させてもらって霊柩車に続きました。

 

火葬場でもお世話して下さる職員さんのほかは、私たち6人でのお見送り。母と私が来ていなければ4人だったことになります。

 

火葬を待っていると、別の霊柩車が火葬場に到着しました。それを見ていた"いとこ"はぼそっと「知ってる人だ」と・・・。

お仕事仲間の様におっしゃっていたと思います。叔母の葬儀の喪主をつとめてなければ、その方の葬儀の方に参列されていたのだろうなと思うとなんとも心苦しくなりました。

 

火葬を待ちながら、"いとこ"の娘さんが用意して下さっていたお弁当を頂きました。ホントに何から何までお世話かけっぱなし。

母も私もまだこの時点では、帰りの便は白紙で、島で泊まるかどうかも未定でした。

「便がなければ自力で釣り宿なりなんなり探しますので、お構いなくです」

とかなんとか言いながらも結局帰りのジェットフォイルの時間を調べて下さり、納骨にも間に合うしそのあと福江港まで送って頂けるとのこと。

突然おしかけたのに、家族ぐるみでのお接待、ほんとに有り難いこってす。

 

お昼12時半過ぎに火葬場職員さんに呼ばれ、6人で骨上げしました。

 

火葬場から、いちど三井楽町の叔母の自宅(父の実家)へ向かいます。クルマで30分ほど。

道中「二本楠」というところを通りました。火葬場は旧福江町の端の方?の山の中にありました。

県道27号線でその山を岐宿町へ降りてくると長崎県でも数少ない平らな盆地に・・・。

 

2008年撮影。

 

この一直線の道は2007年までは長崎県で最も長い直線区間で約2㎞の直線区間だそうです。

 

2008年に大阪の叔父に連れてきてもらったなぁ~などと思いながら三井楽の叔母の自宅へ向かいます。

助手席では"いとこ"の長男さんが骨壺を抱えて下さっております。

 

盆地の先の山を超えると、海が見えて荒川温泉の500メートル手前で右折。国道384号線を北上します。

 

三井楽から玉之浦・大瀬崎灯台方面への道で、2008年には大瀬崎灯台や大宝寺に行く時に通りました。

 

2008年撮影の高浜海水浴場

 

叔母の遺骨といっしょにちょっとした観光旅行です。

 

今回は写真を撮ってる余裕もあまり無かったので叔母宅も2008年撮影分から。

 

2008年にはこのお家の仏壇で祖母の50回忌法要がとりおこなわれました。

その後大阪の叔父が亡くなり、今は"いとこ"がこの家も管理して下さっています。

とはいえ普段は閉めたままなので、現状で宿泊出来る状況でもなく、土足のまま上がっていちど仏壇が収められていたところへ骨壺を収めて焼香。

 

私たちの帰りの便を気にして下さってのことかどうか判りませんが、電気やガス、水道も止まっているので慌ただしくお墓へ向かいます。

 

お墓へ向かう前にちょっとだけ、玄関と庭を撮影。

 

 

"いとこ"は喪服を着替えて納骨室へ入りました。

私が出しゃばる場面でもなかったかも知れませんが、最後にもう少し私も関わらせてもらいたい。

納骨室の"いとこ"へ骨壺を手渡しさせてもらいました。

 

 私たちの着替えは、徳島へ帰るまでの乗り換え時間があれば、どこで着替えても良かったし、乗り換え時間がなければ自宅に帰ってからでも良かったのですが、ジェットフォイルの時間には充分間に合うからとのことで、"いとこ"の旧宅に上げて頂き、着替える部屋を提供して頂きました。お茶まで出して頂きました。

朝8時半ごろのほぼほぼ「初めまして」で、それから6時間でご自宅にまであげてもらえたこと、受け入れてもらえたこと、こころを開いてもらえたと前向きに解釈しております。

父の実家の集落での滞在時間はほんの1時間ばかりでした。14:45頃には福江港に送り届けてもらいました。

五島うどんをお土産に頂きました。

週3で人工透析に行っているという"いとこ"、四国へお越し頂くのは難しいかも知れませんが、是非是非ご家族でお越し頂きたいと思いました。

クルマを降りてフェリーターミナルまで、というか昨夜からずっと外を歩く時に傘が必要になる程の雨には降られませんでしたが、"いとこ"とお別れしてジェットフォイルまでの時間にターミナルの外へ出てみるとかなり降り出していました。

雨の中の運転になってしまい、申し訳ない。どうぞご安全に。

ジェットフォイルの出発まで100分程度。港付近だけ歩いて観光して行こうか。

とも思いましたが、雨ではどれ程も見てられません。

代わりにターミナル内を歩いてパンフレットなど情報収集と五島バスの写真を撮ったりしていました。

パンフレットの情報や五島バスについては、またあらためて、以前五島に来たときの写真も併せてブログでご紹介したいと思います。

兄弟がみんな実家を出て、そんな中でろう者である叔母ひとり実家に残り、誰も招かれず、読経も無いミニマムな火葬・納骨。

理想的ではないかもしれません。押しかけられても迷惑なだけだったかも知れません。

でも、今後独居の高齢者が増え、その兄弟家族も高齢という超高齢社会では、好む好まざる関係無くこうしたミニマムなセレモニーは増えることと思います。

私自身も直系卑属が一人も居ないので、戒名を頂く様なことは無いでしょう。

今回6時間ほど"いとこ"からのお話を伺う中で、66年前に亡くなっている、私が会ったことの無い祖母のこと、そして私が会ったことがある祖父の後妻さんのこともわずかながら知ることが出来ました。

祖母の周りには常に近所や親戚の子どもたちが集まって来ていたそうです。優しくて慕われる人だったんですね。

父や父の兄弟からは継母である後妻さんはこころよく思われていなかった様です。

もともと父や叔父叔母から祖父や祖母についての話しを聴くことはありませんでしたが、私にとっては後妻さんのほうが子どものころに"実在していた"「おばあちゃん」なので、三井楽への道すがら後妻さんについて「このあたりの出身で、私とってはどちらも身内」という風なことを"いとこ"から聴けたのは、私にとっては嬉しいことでした。