先週末は手話で話そう会をサボって、手話のお勉強の代わりに?

郷土史のお勉強に行って参りました。

 

今日もお立ち寄り下さいましてありがとうございます。「入り浜式塩田」?なにそれ?"出っ歯式どんでん返し"ことねぎねぎです。

 

 

 

これはデンデン。

 

 

 
 

 

これはケンデン。

 

6月1日は鳴門市高島にある国指定の重要文化財、「福永家住宅」の春の一般公開に行って来ました。

この日は県立文書館の第68回企画展「折り込みチラシに見る徳島の30年」の展示解説も行われ、どっちに行こうか迷いましたが・・・。

 

 

 

展示解説は1回目の時に聴講に行きましたし、福永家の一般公開は年に2回で春と秋だけなので。また、今回初めて訪れる場所です。

午後からスマホのナビゲーションで案内してもらいながら現地へ向かいました。

 

 

受付で整理券とか、鳴門の渦潮を世界遺産登録を目指してるよ~というパンフレット類を頂きました。

このクリアファイル、貰った段階では手提げ袋状になっていて、手提げ部分と片側サイド部を切り離せる様になっていて、なんだかエコなええ子です。

イベントで配布している観光チラシ類ってビニール製の手提げ袋に入っていることが多くて、ご当地キャラが描かれていたり棄てるには勿体なくて取り残してはいるのですが、ビニル袋なので「棄て時」を見計らって使い捨てるという感じの再活用になってしまいます。(使いどきに迷う)

 

その点、クリアファイルは時々仕事の書類を持ち出す時や書類を人に渡すときに活用出来るので嬉しいです。

お土産や記念品にもお値段がお手頃だったりするので自分用に買うこともあります。

 

整理券を持って、奥のテントで座ってお待ち下さいとのことでしたが、ボランティアガイドさんによる案内が始まった直後だったらしく、「途中参加でよければどうぞ」と案内して下さったので、6~7名かな?の見学者のあとに続いて一緒に案内していただきました。お屋敷の敷地外から、入り浜式塩田の跡が見えています。ガイドさんの説明は先ずはその塩田についてお話されている様でした。

 

 

写真の右側に池というか湿地帯というか淀んだ感じの場所がちょっとだけ見えています。

写真に撮り忘れましたが、現在では淀んだ池に見え、何ら説明なく眺めても塩田跡とは気付かないでしょう。

鳥が集うのどかな風景です。

ガイドさんのお話では、塩田の復元を希望する声はあるものの、堆積物を取り除くなど多額の費用を要するそうで塩田の復元には至っていないそうです。公費をかけて復元すべきかは賛否あるかと思いますが、復元するなら今回案内頂いたボランティアガイドさんの様に塩田があった当時を知る方々がご存命のうちに復元して頂きたいものです。

 

写真手前に見える「鹹水溜(かんすいだめ)」から敷地内を案内して頂きます。一般には「ツボ」と呼ばれていたそうです。

 

 

「坪」は塩田で採取した鹹水(塩分濃度を濃くした海水)を貯蔵する場所で、写真では茅葺きの屋根の内側と根太の上に張られた竹スノコが見えていますが、スノコの下が鹹水を溜めておく場所で地下部分は粘土で築かれ、地上部分は石積み。

スノコの上のスペースは塩田用具の収納や「釜焚夫」の就寝場所(仮眠室?)として使われていたそうです。

のちほど鹹水を煮て水分を飛ばす「釜屋」という建物を案内して頂きましたが、釜焚きは24時間体制で焚かれたといいますので、起きてる時は釜屋で、寝る時も鹹水の上。常に高濃度の塩水にさらされる環境は過酷だったんじゃないでしょうか。

お肌への影響もあったのでしょうかね。ほどほどの海水浴なら敏感肌にも良いのかもしれませんけど・・・。

 

坪の内寸は13.2m×4.98m、深さ2.4mとのことで、117,000リットルの鹹水が保存出来るそうです。

 

こちらの写真に見えている木製の栓を引き抜くと坪に溜められていた鹹水は地下に埋められた木製の管を通って次の建屋「釜屋」にある「たぶり桶」に送水されます。

 

ツボ(鹹水溜)を出て、茅葺きの屋根を見ます。

鹹水溜は茅葺き屋根が飛散するなどの痛みがあったため、平成21年に保存修復を実施したそうです。

このため、こちらの建物は重要文化財の指定外の建物です。

 

ツボの次に「塩納屋」を案内して頂きましたが、製塩の順番では最後の建物になるので、ここでは「釜屋」を先にご紹介します。

 

ガイドさんが順次テンポ良く案内して下さるので、ゆっくり建物ごとの外観写真撮ってる間がありません。笑

 

いきなりですが、釜屋の中です。

 

左に見える「タブリ桶」は井戸の様な構造になっていて、先ほど見た鹹水の貯蔵場所から送水された鹹水をはねつるべで汲み上げ、右に見える「こし桶」に移し替え、ろ過するそうです。

 

こし桶の中にははねつるべの桶も。

ここも建物は復元されたものだそうで、本来茅葺きの屋根がトタン葺きになっているそうです。

写真に見える桶はタガが取れてしまっている様ですし、この桶は当時物なのでしょうかね。

こし桶でろ過された鹹水はいよいよ釜で煮詰める工程へと送られます。

 

 

5列×9列の45本の金具とわら縄で梁に釣られているのが石窯の「鍋」部分です。その下部がカマド。

 

鍋は石と赤土で作られているそうで、フチは粘土が立ち上がっているそうです。作られた釜の上に松葉やシバを置いて燃やし、釜を固め、釜全体が水平になる様に吊り揚げられているそうです。

 

こし桶でろ過された鹹水は「温め鍋(ぬるめなべ)」という鉄製の鍋で余熱で温められたあと釜にうつされ、一回の釜焚きで3時間ほどで「どろどろ状態」の煮つまった塩が出来るそうです。

 

こうして作られた釜の鍋に鹹水を入れて24時間火を絶やさずに塩を煮詰めたそうです。

石釜は具合良く築けた場合20日間ぐらい塩を煮詰めることができ、最後には釜の寿命で壊れてしまうそうです。

その都度作り直され、作り直す専門の職人も居たといいますので、驚愕ですね。

塩づくりには広い塩田だけではなく、何度も何度も繰り返し作り直される釜が必要だったのです。

 

もっともこの「釜屋」は江戸時代終わり頃を想定して復元されたもので、鳴門で石釜が使われていたのは江戸時代から明治中期ごろまでのことだそうで、明治中期以降は欧米の塩釜に倣って鉄製の釜が使われ、さらに昭和15年には工場製塩となり「釜屋」も使わなくなったそうです。

 

また、釜を作る時に使われる松葉や塩を煮詰める時の燃料は現在の板野郡松茂町の松が使われていた様で、江戸時代の終わり頃には石炭も使う様になっていったといいますが、鳴門の製塩では藩が石炭の使用量を制限し、地元産の松を扱う業者の雇用を守りつつ、徐々に制限を緩和していったそうです。

 

 

石炭が燃料として使われたのは製塩が最初だったとか、製塩での石炭利用が始まった年代順に炭鉱のあった九州から瀬戸内沿いに四国、関西へ広がっている様子も解説されていました。

石炭といえば我々"鉄っちゃん"にとってはSLの燃料というイメージですが、日本の鉄道自体が明治5年開業ですから、ならばそれ以前の石炭利用ってどうなの?ってところで、製塩で利用されたというのはおもしろいと思いました。

 

煮詰められたどろどろ塩は「塩取り籠」でさらににがりなどの不純物をとりのぞいたそうです。

 

そしてここでも、製塩にまつわる地元の産業のお話が・・・。

 

製塩の過程で副産物として出来る「にがり」。これを利用して炭酸マグネシウムを製造したのが大塚製薬や富田製薬(の原点)とのことをガイドさんから説明を受けました。

 

なるほどー!

そういえば「生理食塩水」をはじめ大塚製薬といえば点滴などの輸液が国内トップシェアといいますし、炭酸マグネシウムは窯業用工業薬品としても使われるので大塚グループに製陶業の会社が含まれていたり、大塚国際美術館が陶板で絵画を復元しているのも納得ですね。鳴門に塩田・製塩技術がなければ、現在の大塚グループや陶板を利用した美術館も無かったかもしれません。

 

では、富田製薬と塩の関係は?

こちらは帰宅後にネットで調べてみました。富田製薬さんのwebサイトで詳しく歴史が書かれています。

 

大塚武三郎が大塚製薬工業部を創立したのが1921年なのに対して、富田久三郎は1871年には咳止め薬の売り上げ利益を、炭酸マグネシウム量産のための研究費として研究を初めているようです。鳴門ではなく静岡で研究開発をしていたそうです。1877年には準良品の炭酸マグネシウムの製法を完成し、1879年には瀬戸内海近辺の塩田を調査していて、その頃の製塩で出たにがりは海中に棄てていたといいます。にがり確保のため1885年には静岡浜名で製塩施設を作ったものの製塩事業が本業である製薬の足をひっぱるため中止しています。

 

製薬のために製塩業を自分の所で始めちゃうのも驚愕ですね。しかもそれよりも前ににがりを棄ててるのを見てたのに?

今にして思えば「なんで廃物利用、リサイクルで製薬しなかったの?」って感じてしまいますが・・・うーん、時代が違うということなんでしょうかね。

 

その後製薬業はうまくいっていたものの、1887年に工場を全焼していて、1888年に瀬戸内海近辺を再調査。

1891年に鳴門へ移り住み、工場を建設したそうです。

 

製塩の工程のお話に戻しましょう。

 

 

釜屋でのどろどろ塩からにがりなどの不純物が取り除かれるところまでのお話でしたね。

にがりを分離させた塩は一昼夜乾燥させてから「塩納屋」に収納され、さらに乾燥させるそうです。

見学の順は「釜屋」とは逆になっていましたが、製造工程では「釜屋」の次。出荷される前の塩が保管される場所です。

 

写真はその塩納屋の梁と屋根。

こちらは重要文化財に指定されている建造物です。

木の間仕切りが立ち並んでいる様子はお手洗いとか馬小屋を連想しますが、「塩納屋」なので、間仕切りの中は・・・

 

こんな風に梱包された塩が積み上げられていた様です。

ここでも一週間ほど貯蔵されている間にさらににがりが取り除かれるそうです。

 

塩納屋のとなりには船着き場があります。

 

 

ここから船で出荷された塩は、遠くは北海道まで運ばれ、帰りの船には(魚の種類を聞いたけど失念)魚を砕いた様なものが積み込まれ、阿波藍の肥料に使われていたそうです。

写真で見てとれる石の色の違いからも近代に手が加えられている様子が見てとれます。水路へ下りて行く石段は塞がれている様です。

 

 

 

濃縮された海水から塩が出荷されるまでの3つの建物を見て来ました。

そのうち「釜屋」「鹹水溜」が復元建物でした。

 

船着き場を見ていたら、船着き場のすぐ先でドローンが飛んでいました。

駐車場にクルマを駐めたとき、地元ケーブルテレビのクルマがあったから、たぶんその撮影のドローンだったのでしょう。

ケーブルテレビの番組で福永家住宅のドローン映像が出たら、オイラ映ってるかもしれません。

(手話でしゃべろう会をサボったのばバレちゃうじゃん笑い泣き)

 

ドローンが気になってガイドさんの説明があまり入ってこなかったのですが・・・

 

船着き場を背に北側を向くと、左側の建物が薪納屋。文字通り釜屋で使用する燃料保管庫です。

正面が文政11年(1828年)に建てられたという主屋です。

どちらも重要文化財指定されている建物です。

 

主屋はこう見えて二階建てです。この地域特有の強風に耐えられるよう低く作られているそうで、太い柱は本数も多く、屋根瓦も漆喰で固められているそうです。

 

主屋の中を見る前に離れ座敷の外観から案内してもらいました。上の写真では薪納屋と主屋の間左奥です。

炎天下でスマホ撮影してたからか、安全機能が作動して、離座敷や庭の松の木の写真が撮れていませんが、離れは1832年の建築で需要文化財。

ガイド氏によると、福永家の方が一般公開を前に敷地内の整備にお見えになられたりされているそうで、その時に庭の松の木も建物が出来た当時から変わっていないとおっしゃっていたのだそうです。

 

主屋と離れの結ぶ渡り廊下がありましたが、この部分はあとから増築された部分だそうで、重要文化財にはなっていないそうです。

 

その渡り廊下部分で今回の展示では浜作業の人形や塩田絵巻の展示がされていました。

絵巻はなんとかスマホがご機嫌斜めになりかけながらも撮影できました。

 

 

 

 

 

主屋に入ると風が通って涼しい。スマホのご機嫌も少し回復した様です。

みんな大好き、土間のかまど。

 

ガイド氏の話では「なるちゅるうどん」として知られる鳴門のうどんも起源は製塩にたずさわる職人さんのまかないに作られていたうどんとのことでした。

なるちゅるの発祥についてはいくつか説がある様ですが、そのうちのひとつに高島発祥説もある様ですし、なるちゅるで有名なお店のひとつ、船本さんの本店が高島にあることからも、発祥といえるかどうかは別にしても、製塩とうどんのつながりは深かった、いやうどんだけに「太かった」であろうことは充分考えられそうです。

 

 

ガイド氏からはこちらの主屋に何年頃までお住まいの方が居たとか、この下駄は当時その方が履かれていたそのままといった風な説明も伺ったのですが、頂いたレジュメにも載っていない様ですし、ネットでも見つかりません。

またこんどの公開の時には聞き逃さない様にしよう・・・。

 

主屋を北側へいちど出て、外から「おく」の部屋を覗くと、2階へ続く「箱階段」が見えました。

 

 

主屋北側には土蔵跡があって、そこからも塩田跡を見ることが出来ました。塩田も復元されていれば良い撮影場所なんでしょうけど・・・。

 

 

 

塩田と主屋の間にある納屋にはトイレとお風呂もありました。

ただこのお風呂、木の浴槽はあるものの釜が無いとのことで、ガイド氏は「釜屋」で沸かしたお湯を持って来てたのだろうか・・・という風なことをおっしゃってましたが。

 

・・・だとしたら真水じゃなくてお風呂も塩水だったとか?

それに昭和15年には工場製塩になってて、少なくとも製塩目的で釜屋で火を焚くこともなかったでしょう。

 

そういえば敷地内に普通の井戸も見当たらなかったし、お風呂や食事用の水はどうしていたのでしょうか?

 

高島の上水道についてまではわかりませんでしたが、撫養町の上水道は昭和7年に使えるようになっている様ですし、納屋に置かれている浴槽は単に納屋で保存されている浴槽ってだけで、そこが風呂場だった訳ではないのかもしれません。

 

釜屋の復元は「江戸時代末期」を想定して復元していること、一方で重要文化財になっている6棟の建物は昭和51年に重要文化財に指定されたあと、昭和55年から58年にかけて解体「復原」されていることから、上水道が整備されるまでは敷地内のどこかに井戸があって、遅くとも昭和15年~戦後には敷地内のどこかに上水道が来てるお風呂があった・・・?

でも「復原」や「復元」にあたって製塩に関係ない昭和15年以降の建物は「復元」する必要は無いと判断されるでしょう。

だから一度解体された時点(s55頃)に「お風呂場」は残っていたのかもしれませんが既にお風呂としては使われておらず、風呂釜も既に撤去済みだったのかも知れません。

 

ざっくり言うと、江戸時代には敷地内に井戸や井戸水を使うお風呂があり、昭和時代には敷地内に上水道や上水道を使うお風呂があった。ところが昭和時代に解体した時のまま、江戸時代の建物が復原されたことで水源と沸かし方が不可解なお風呂が復原されてしまった。・・・と考えるのがもっとも合理的な気がします。

 

納屋の裏側へまわるとお風呂の反対側にはトイレがありました。

釜屋の煙突を外から見ます。煙突も復元されたもので、原形の煙突とは違って(予算の都合か?)屋根瓦を再利用した煙突で復元されていました。

 

再び敷地出入り口付近まで戻って・・・

 

製塩道具の数々・・・

 

大谷焼の水瓶も製塩で使われていたそうです。

 

 

塩田のしくみに詳しい人が私の世代や私より若い世代にどれほど居るのかわかりませんが、昔の鳴門の写真を見る機会があれば「塩田」の写真を見たことがあるという人は比較的多いのではないかと思います。

 

昔の塩田といえば、一律にそうした写真で見るイメージでしかなかったのですが、どうやら「入浜式」は私が写真でみた塩田とは違うものだった様で、「もっと昔の塩田」だった様です。

昭和20年代後半から昭和46年頃までは流下式塩田で鹹水が作られていた様で、私のイメージする塩田はその区別は無く、流下式の「枝条架」という重力で滴り落ちるうちに水分を乾燥させる装置が立体的で大きく見えるのでイメージとして記憶に残っていた様です。

 

ヒトが生きていく上で大切な塩分。普段は何気なく家庭やスーパーにあるのが当たり前の様に口にしていますが、改めてほんの半世紀~2世紀程度前の先人がどうやって塩を作ってきたかを見て、塩の一粒一粒のありがたみを感じることが出来たような気がしました。

 

今日もここまでおつきあい下さりありがとうございます。

福永家住宅の一般公開は秋にも行われている様です。塩の製造過程はもちろん、製薬会社の原点、他府県との物流・・・いろんな発見が出来ると思います。みなさんも是非ボランティアガイドさんの案内に耳を傾けてみて下さい。

 

では、また。(o^▽^)尸~~ばいちゅ~♪