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 身体機能の多様性を無視して、社員全員一律同じ試験を受けさせることが「公正」。

 扶養家族のいる社員を、独身社員より先に昇格させて給与上げてあげるのが「公正」。

 

 それって、本当に「公正」なわけ?

 はっきり言って、「不公正」もいいとこでしょ。

 

 しかしながら、実は、いずれも「公正」なのである。

 

 ビジネス倫理の研究者であるJ. Greenberg氏は、「組織的公正(Organizational Justice(*))」について、いくつかの種類に分類して定義している。

 

 第一に、「分配的公正(Distributive Justice)」、つまり自分の分け前が他の人と比べて「公正」かどうか、という意味である。分配的公正は、さらに3つの種類に分かれる。ホールのケーキをボクとお兄ちゃんと弟で分ける例で見てみると;

 D-①衡平:貢献度と分け前の量が釣り合うかたち。ボクはたくさんお手伝いして、お兄ちゃんと弟は何もしなかったから、ボクがホール丸ごと独り占めしてもよしとする。

 D-②平等:皆に均等に分配するやり方。3人兄弟、みんなおんなじに、3等分。一番カンタン。

 D-③必要性1人ひとりの必要度やお困り度に応じて傾斜配分する。ボクとお兄ちゃんはさっきアンパン食べたけど、弟は食べそびれて一番おなかをすかせているから、弟に一番おっきなピースをあげよう、といった具合。

 これらを企業の評価報酬制度に当てはめると、①の典型は業績給、②は年功序列、同期同時昇格などの伝統的制度、③は扶養家族手当や単身赴任手当、となる。

 

 第二は、「手続的公正(Procedural Justice)」である。こちらは、「分け前」が公正かどうかではなく、分け前を決める「手続」をコントロールできるかどうかを公正の基準とする。

 P-①過程のコントロール:意思決定の過程で、自分の発言がちゃんと考慮された、と思えること。ママが3人に「どうやって分けたい?」と訊いてくれて、あーだこーだ言う機会があって、最後はママから「やっぱり3等分が一番公平ね」と鶴の一声。

 P-②決定のコントロール:意思決定そのものを行えること。ママに「自分たちで決めてね」とナイフを渡される。

 

 先のAさんのケースは、言ってみれば、人事部がD-②に固執して、特別な配慮が必要なAさんにD-③の「公正さ」を提供しなかった、と解釈できる。

 包装スキルチェックを別のものに置き換える、という変更を、上司とAさんが実現したという点では、ある意味P-②を実現できたとみなせる。

 

 一方Bさんのケースは、基本はD-①に則って判断すべき(昇格試験では、過去の実績だけではなく、将来の貢献の可能性も含めた「貢献度」を測る必要がある)ところ、D-③の要素を紛れこませてしまったということになる。

 もし、上司がBさんと以下のような会話をしていたら、ある種P-①が担保され、Bさんの怒りも多少は目減りしたかも、しれない(しないかも、だけど(笑))。

 「彼には養う家族がいるから、早く課長にしてあげたいんだ」

 「なんですか、それって。イミわかりません」

 「わかる、いや、わからないのはわかる。でも彼には子供が5人もいて…」

 「子だくさんは夫婦の問題じゃないですか」

 「そうだ、そのとおりだ。でも…」

 「…来年は、ゼッタイ私、課長昇格ですよね」

 「それは保証する」

 

 言いたいのは、こういうことだ。

 「公正」にはいろいろな種類があり、時代や状況や相手によって、適用すべき「公正」の概念が変わってくる。

 社員がみんな同じ能力を持ち、年齢が上がるにつれて習得するスキルや能力も同じ、携わる業務も基本同じ、という金太郎飴的集団であれば、全員十羽ひとからげD-②の「公正さ」があれば十分だ。伝統的日本企業は、いい悪いは別にして、ある意味こういう金太郎飴だった。

 ところが、今やダイバーシティ推進。同質的集団から脱却して、多様な社員をIncludeする必要に迫られている。そこでは、多様な人たち一人ひとりの貢献度に応じて公正に評価するD-①が不可欠だし、多様性によって特別な配慮が必要な場合は、個別にD-③を提供しなければならない。

 十羽ひとからげに比べると、格段に面倒くさい。

 でも、これをやらない限り、真に公正なダイバーシティ経営は、実現しない。

 

(*)FairnessではなくJusticeが使われていることが気になるが、理由はまだ探り切れていない。