7月1日の夜、突然「覚醒」が訪れた
あるいは「天啓」。
神秘主義やオカルトに走る気はないんですけどぉ… もしかして当たり前のこと^^;、私の目がいま見開かれた
のかもしれない。
先日「ホトトギスの確信」なんて、家康の句(-伝-、)を分析しちゃったからかなぁ。
突然ひらめいちゃったんだよね。
過去は確定された事実。もう変更できない。
現在は、未来をという糸を空気中から紡ぎ織りなしてゆく(確定している)、まさにその現場。
そして未来は…. まだ起こっていない(確定していない)がゆえに、自分で書き換えることができる。いま考える「きっとこうなるだろうな」というあきらめに似た気持ちのままで、むざむざと不本意な「未来」を受け入れることはないのではないか?....
と、ハッとして、
それなら、未確定の未来を書き換えるにはどうすればいいか?と考えたら、
「完了形で表して、それが本当に起こったと、心から信じればいい」と思った。
つまり、今は2010年7月だけれど、たとえばこの10月に予定されているバレエ発表会のことを、
<2010年10月末、気持ちよい小春日和の日曜。ナポリのテレシナを、初めてのトゥシューズで、自分の持てる以上の力で、楽しんで踊ることができた。家族や友人にも喜んでもらえた。私の、バレエと音楽が好きな気持ちを分かち合ってもらえて、とても幸せな時が持てて、よかった。 感謝。>
と、書いてみる。
最初、私は過去形で書くことができなかったので、現在形で「こうあるべき」未来を書き出してみた。
それをそのまま過去形で綴り直してみた。
こういうの、誰かの本で読んだこと、ありますね?
「ザ・シークレット」なんかはまさにこの手の話でした。
まだ起こっていない未来(自分の希望)を、確信して過去形でつぶやいてみる。あるいは信じる。
そうです、言われてきたことなのです。私の大発見でもなんでもありません。
ただ私は、そういうの読んで「知識として」知ってはいても、できなかった。
なんとなく突拍子なくて胡散臭くて(笑)、「信じるものは救われる、かい?」、…心から本当に理解して、「そう、そのとおり!」と納得して実行できなかった。
だけど今は、自分自身がその「メカニズム」をわかったような気がしています。
過去を認識できるのなら、どうして未来に働きかけられないわけがあるでしょう。
私たちはただご飯を食べて生きているだけはない、魂は自由な存在なのですから。
無力ではないのですから。
いまは転んでいますが、私は28歳でクリスチャンになりました。
とても大きな挫折があり、「これ以上、不確定な未来を、道しるべなしで歩いていくことができなく」なってしまったからです。打撃は胸とお腹の奥深くに達していたようで、そのショックのあと数ヶ月も経ってから影響が出ました。起きられなくなってしまったのです。 希望が、なくなってしまって。
一生懸命がんばっても、心で祈っていても、叶わないことがある。
何年も心血を注いだ「人生の一大プロジェクト」が無残に崩れ去るなら、もう怖くて頑張れない。
誰が私の人生をガイドしてくれるの?
… そんなギリギリの思いで飛び込んだのが教会でした。 二月の大雪の日曜でした。
子供のころ日曜学校に行っていたから親しみはありました。でも、大学のとき人生に迷って教会に行ってみたけれど、信じられませんでした。教会に集う人々の「環境」もあると思います。牧師も大きなカギです。少しでも「まやかし」「胡散臭さ」を感じたら、冷めてしまいます。
その「困って行った2月」のときは、本当に恵まれたんですね、教会に、牧師に。それまでに行った教会とは雰囲気や、活性の度合いが違っていました。
すぐに信じることができました。
ちょっとだけ試行錯誤の時間がありましたが、パズルのある1ピースがわかったらどんどん他も埋まってゆくように、「
」と眼を開かれる瞬間がありました。
先生が教えてくれる聖書の話が、まるで家の壁を少しだけ割って骨組みを見て、ああ、見えなくても中はこんな仕組みになっているのだとわかるように、すべてが理解できました。
「すべてが」理解できなくても、きっと他の部分もこういうふうに木が組まれているんだろうなと予測できるみたいに、安心して確信できました。それで、先生たちも驚く早さで洗礼を受けたのです(水に浸かりました)。
信じることは、ある意味、自分を何かにゆだねる(自分自身にしがみつかずに開放する)作業でした。
残念ながら、そんな貴重な体験を受けておきながら私は離れてしまったけれど、今回の「天啓」はそれと似ていました。頭上のモヤモヤと厚い雲が一箇所だけさぁっと晴れて、光がまっすぐ差し込んだように、すっきりと理解できました。
さて…。
私は三年先までの予定を「確定」しました。
あとは、物事がそのとおりに進むのを、拝見したいと思います。
.... と、ここまで、揺るぎない自信で書き切ったと同時に、まったく反対側の、これまた真実だろうと思う言葉が頭をよぎります![]()
【なるようになる。ならないようには、ならない。】
だからまぁ、さらに続く言葉は、「果報は寝て待て」!? ジタバタしても始まりません。
こんなこと言うと、まるで今まで上で書いたことがムダになるようですが、そうではないと思います。
自分がある方向性を望んで生きていく。中には無理なものもあるかもしれないけど(好きなことが思い通りに叶ったら、社会性や公序良俗に反するものも出てくるかもしれないじゃないですか。あるいは誰かの不利益とか)、叶う(=確定される)ものは、叶ってゆく。時間という審査を経て。
その取捨選択と確定の結果が、いまここにいる私なのですからね![]()
とりあえず。
ちなみに私は、「ラップランド地方までわざわざ行ったのにオーロラに出合えなかった」「インドのダラムサラに1週間以上もいたのに、ダライ・ラマの握手会を逃した」とか、そういう小さないくつかのこと&大きなたった一つのことを除いては、いまのところ、まずだいたいの望みか叶っています。ある種、自分が思い描いていた生活を手にしています。
改めて、自分でも驚いてしまうくらいに。
それは、とんでもなくゴージャスであったり夢のような暮らしではないけれど、堅実に安定していて、心身ともに健康で、やりたい方面の仕事をやり、休みや好きなことを充分に楽しめ、よい友人や仲間に囲まれて、独立できている「自由な」暮らしです。