こんにちは、ミキです。
みなさんはお盆休み真っ最中でしょうか。
私にはないので、普通に週末です。
さて...。
忘れたころにやってくる。
「東電OL」ふたたび、ですね。
ネパール人のゴビンダさんは冤罪なのでしょうか?
だとしたら、どうなるのでしょう...。もう10年くらい(それ以上?)入ってますよね...。
この事件が起きた時、私は30そこそこ。
40を目前にしたエリートOLが売春をしてて殺されたなんてそんなしょぼい話、ほぼスルーで、興味がありませんでした。
というか、30そこそこで未婚という私もそろそろ崖っぷちでして、39歳で立ちんぼやって殺されたなんてそんな不吉な未来、聞きたくもなかったわけです。「39になるまでには片付いていなければ!」だったわけで。
私は目下自分の恋愛ごとに忙しく、世間がどうしてそんなに騒いでいるのか不思議なくらいでした。
ただ、新聞にそのYさんのきちんとしたショートカットの顔写真が載っていたのは覚えています。
昼は東電の管理職OL、夜は渋谷円山町の立ちんぼ売春婦という落差でマスコミや世間のすさまじい好奇心にさらされ、犯人より被害者のプライバシーがえげつなくさらされた事件でした。
リアルタイムで興味がなかった私ですが、彼女と同じ39歳になってしかも未婚で、その時にならないとわからない「心細さ・心もとなさ」にくらくらと揺れ、彼女のことを思い出し、彼女に関する本を読んだりネットで情報を探したり、果ては現場のアパートまで行ってその場に立ってみたりしたのです。
彼女が毎晩客引きをしていた場所であるというお地蔵さんにも行ってきました。思い描いていたより怖い顔のお地蔵さんでドキッとしました。そのあたりは、道玄坂というのに暗いんです。
19歳、29歳...、その10年間の最後の年はまるで「世紀末」のような気がして、その先は一体どうなってしまうんだろうと不安になるものです。
ましてや39で独身とくれば、女としてもどうなの...?とかなりもがいていたのでした。
その時、私なりに彼女のあとをたどり、少しは身近に感じたような気分でした。
そりゃ慶応大出のエリート、東電で管理職だなんて、そういう立場はわかりようもないですが、そうやって極めた人だからこそ感じる虚しさもあったような気がします。つまり、中途半端で何も取り柄のない女なら「私がダメだから今もこんななのね」と納得しようもあるものの、ある意味完璧だったから、自分の中で「破れ目」の答えを見つける「隙」がなかったのかもしれません。そして今の私ならわかる、自分が社会的に居場所のある「こういう私」という表面上というか、みんなが安心できる、無害で最大公約数的な「自分」が、堅苦しくて退屈でしょうがなかったのかもしれません。社会的に認知されている「私はこんな人」をいまさら崩せない。これはお約束なのだ。でも、ああ、それを毎日続けていくだけでこんなにつらい...。(私だって、毎朝の繰り返し、起きて支度をして、同じ時間の通勤電車に乗るまでがひと苦労です。)
それで、夕方の退社後は長い髪のカツラをつけ濃い化粧をして、169センチで44キロに痩せてしまうまでつゆばっかりのおでんで済ませて、もうひとつの「夜の顔」の中で殺されてしまった。私は、彼女はほとんど自殺だったんじゃないかと思っているんです。誰かに殺されてもちっともおかしくない過ごし方をしていた。こういうことは、遅かれ早かれ起きてもおかしくない行動をしていた。もう自分でもどうにもならなくなっていて、もう破滅が見えている。誰かにどうにかされるならそれでもいい、と思っていたような気がするんです。つまり、勝手な思い込みながら、彼女にとっては悪夢を終わらせる救いだったかもしれないと思っています。
この東電OL事件に並々ならぬ思い入れをしている女性は、結構いると思います。
その中の一人、中村うさぎさん。
彼女と酒井あゆみさんの本は、私が深く関心を持った4年くらい前に一通り読んだのですが、今回ゴビンダさんのニュースが流れまたこの事件が脚光を浴びたため、ネットで情報を見ているうち、中村うさぎさんご本人にも興味を持ちました。
中村さんは東電OLに深く思いをはせているけれど、ご自身もショッピング依存症とかホストにはまるとか豊胸手術の実録を公開した映画とかデリヘルとか、かなり突き詰めてもがいている様子がすごいな、と思ったからです。
今回初めてその映画、「UTAKATA」のDVDを観てみました。
一番おもしろかったのは、彼女の自宅マンションの内部、玄関から廊下だけ写したシーンでした。
ものすごかったんです。「ショッピングの女王」の名の通り、その戦利品(?)の山で、廊下がふさがってしまって、「チョン、チョン、チョン」とつま先立ちで空きスペースを作らなければ向こうの部屋までたどり着けないだろうな、という乱雑さだったのです。
他の部屋もこんな具合だと言っていたから、まず疑問に思ったのは、ダンナさんはこれで平気なのかということ。そして、もしもキッチンもこんな具合なら、衛生状態はどうなのかな、と気になったこと。もしこんなだったら自炊ってできないだろうな。ご飯を自分で作るのも、自分や生活を健全に回すうえではかなり大事なことだと実感しています。もちろん毎食とは言わないけれど、たまには。
その撮影は冬で、家に三機あるエアコンのうち二つは故障、もうひとつのはリモコンが見つからないためつけられず、この有様じゃ修理の人も呼べないということでしたが、確かにその通りだとちょっと呆れてしまいました。
誰か有志を頼んで、物を片づけてもらえばいいのに。誰かに言われたとおり、全部持って行ってもらってフリーマーケットでも古着屋でも、それがダメなら捨てるでも、とにかく一度スッキリしたほうが精神的に絶対いいと思うんですよね。 風通しをよく。
思いつきで買い物してそれを山にしてどんどんたまっていくと、さらに荒むと思います。
せめて、いらずに買ったものは流していったほうが...。生活の場だけは、片付いていたほうが「自分がラク」です。この乱雑さの中で目を覚ますと、昨日までの蓄積に、新しい一日の「しっかりした」予定まで崩れてしまいそうです。
そういうのって、基本的に大事だと思うのです。きちんと挨拶ができるか、できないか、みたいな感じで。 自分の中の「けじめ」として。
彼女が映画の中で繰り返し言っていたこと...。「誰かに認めてほしい。女として認めてほしい。褒めてほしい」。
うん......。 私はそれは、「無理」なんじゃないかと思います。
別に彼女だけが無理なのではなくて、「誰かの評価で自分の存在意義を確認すること、そのために誰かにいてもらうこと」...、それって、どうなんでしょう? そんなに都合よく自分のエゴを満足させてくれる人が、いつもいるわけないじゃないですか?
人に求めるなら、自分はどうなんでしょう?
そんなに他人に求めるように、自分は誰かの「存在意義を確認されるために」役に立っているのでしょうか?
私は、基本、誰かの評価をあてにしながら生きていません。
だって、自分が何かいいことやいい仕事をしたときに、まるで天使のように誰かがいつも見ていてくれるなんて、そしてそれをほめてくれるなんて美しいおとぎ話のようなこと、あるわけないじゃないですか? たまにはあるかもしれないけれど...。
いつも誰かに必要とされているなんて、幻想です。そんなの、暑苦しいじゃないですか? そんなふうに「あなたがいなくちゃ生きていけない、いつもいつも君だけのことを考えているよ」なんていう存在が、恒常的に存在する方が稀有です。ひるがえって、自分にとってのそんな人だって、いないでしょ? それは夢、なのだと思います。あるいはあくまで希望。たしかに、そうあれば生きがいもあるし、美しいけれど。(お互いのバランスが保てている限りはね!)
「何かをやり遂げたことの報酬は、それが「できた」ということだ」と言ったアメリカの著名な人がいましたが、本当にその通りだと思っています。自己満足なんてかわいそうな人ね、と言うなかれ。自分のことを、裏も表もぬかりなくわかっているのは自分だけなんです。自分で「よくやってる」「よくできた」と安心して自分をほめてあげられたら、あるいはダメなところも「まぁしょうがないな。私はこういうの苦手だし。うまくいかない日もある」って許せたら、結局は、自己肯定と自信につながると思っています。「人の目を気にして生きるなんてくだらないことさぁ~」とキヨシローさんも歌ったじゃないですか、その通りですよ。
人が認めてくれなければ自分は不安定で大変だ、なんて、あまりにも合理的でなくてキビしい生き方だな、と思わざるを得ません。みんな自分のことだけで精一杯ですよ。自分のこと見ててくれて、何か感想を言ってくれる人は貴重だし、いつもあることではありません。人間、究極のところでは「自分」ですから。
誰かが認めてくれても、認めてくれなくても、腐らずに、自分を生きていくしかないんですよね。
それが私の、東電OLと中村うさぎさんに対する答えです。