面白がるのも大概に | 人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。
一時期、麻原がテレビで持て囃されたことがあった。大変面白がられていた。あの胡散臭い大物感と気さくなおっさん感、時折見せる本音と斜視の鋭さ、はぐらかしの虜になっていたわけだ。



マァ、確かに面白い。エンターテインメントとしては。interestingと云うよりもfunny要素強め。でもテレビの文化人的な人のノリとしては、funnyよりもinterestingだった。無宗教的な人間は宗教全体を胡散臭く考えがちだから、本当に胡散臭いものと本当は胡散臭くないものの違いが分からない。それで無闇矢鱈と面白がり、持ち上げもする。

で、面白がられていたがその割に望む結果が得られなかったり、飽きられて棄てられたりすると逆恨みする。

48界隈を見ていても、面白がる人間と面白がられる人間がグループをぶっ壊している。面白がる側は詰まらない生活を刺激的に、彩り豊かにするために面白がっているだけだから、そこに真剣味はない。真剣そうに見せていても所詮は、上辺だけ。しかし面白がられる方は、幾ばくかの人生が懸かっている。だが、もっと問題なのは、生息域が荒れることだ。面白がられる側ではなく、もちろん面白がる側でもなく、生息域に共に存在するその他大勢が最も損害を受ける。面白がる側の意識としては面白がっているからイケているのであって、マジになったらダサい…負けになる。だから飽きるまで面白がる。残されるのは人生を狂わされた人間と、人生を狂わされた人間によって被害を受け、中には更に人生を狂わされることにもなるその他大勢の生きる空間である。

「ならぬものはならぬ」は、思考停止であるから好まないけれど、一線を画すと云う意味合いでは重要なことだ。なぜならぬのか、そこはきちんとロジカルに説明しなければならない。そこを面倒がって素っ飛ばすからダメなのである。必ず、面白がる場合には、これはダメだ・ここから先はダメだと云う部分を心に忍ばせながら応対をする必要がある。これが出来ない人間は、誰かを持て囃しては面白がっちゃあダメなのだ。