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3-1 本田宗一
猿まね 反対
1949年8月17日 旧盆も開けた蒸し暑いこの日、日本中は早朝から脇に沸いていた。アメリカロサンジェルスからの電波に乗って報道された”フジヤマのトビウオ”古橋広野進選手が全米水泳選手権大会で、新記録を立て日章旗を高々と掲げた快挙のニュースにみんな心奪われ久しぶりにバンザイを叫び続けていた。当時は戦後、それも敗戦という暗い世相で、汽車の窓ガラスを破って乗り降りしたような混とんとしたときでもあった。こうした時、彼の世界一の記録はどれほど国民の心を慰め、勇気づけてくれたかしれない。私もその一人である。
しかし、私には古橋選手のように体力はないが、さいわい 技術というものを持っている。技術、つまり頭脳による勝利をもたらしたら、今の日本人にどんな大きな希望を与えるかしれない。そして若い人々に日本人としてのプライドを持たせることもできるに違いないと信じた。
このことを早速従業員さんに話し「オートバイのグランプリレースに出て優勝するまでやってみようではないか」と問いかけたら、みんなが「社長、やりましょう!」と目標が決まりその日から私たちの夢、英国マン島のTTレースへの挑戦が始まった。昭和29年3月こうした夢と若い人々の情熱に書きたてられた私は、TTレースに参加する旨を代理店の前に宣言し、6月には早々に現状を見にマン島に渡った。レースを実際に見てビックリしてしまった。希望が達成される日はいつにのことやら、と なかば悲観し、なかばあきれてしまった。私はそこで考えた。外国人にやれて日本人にできないことは無いはずはない、と。そのためには一にも二にも研究だと思い、帰国後直ちに研究部を設けた。当時この業界では研究部など持っているところはなかった。この研究部を設計部を統合して昭和32年には技術研究所として独立して別会社をつくりあげたが、これもTTレースが動機で研究を徹底的に進めようという考えから出発している。この間にはいろんなことが起こった。会社が
資金面で苦しんだこと。国内のオートバイレースでは3年連続立て続けに負けたことなど・・・。
この時などは若い者の口から「こんなに苦労しても勝てないなら、我々も外国製を真似れば勝てるに違いないからそうしたらどうか?」という声さえ出るたびに苦しんだ。しかし 我々はその模倣を捨ててそれを乗り越える努力を重ね続けた。その結果昭和34年のTTレースには125レーサーを完成、初参加することができた。その時の成績は六着に終わったが初陣で六着という上位に食い込んだのは、このレースでも初めてだった。それとともに、それまでの日本製品というと、外国製の模倣が多かったので”猿まねだ”という悪評が多かった。ところがわれわれのオートバイを見た人々は驚きの目を見開いた。英国一流の新聞は「ホンダのオートーバイは極めて独創的で精巧な時計のようにできている」と驚嘆と激賞の言葉で取り扱ってくれたので、日本製への汚名を十二分に拭い去ることができた。われわれは更に目標への努力を払いながら連続出場を重ね、昭和36年には遂にメーカーチャンピオンを獲得し、ここに初志どおり世界一の野望を達成、栄光の座に着くことができたのである。
こうした長い歳月の苦しみを,ひと口に言い表すならば、「成功とは99パーセントの失敗に支えられた1パーセント」の一語に尽きるとつくづく思う。
昭和29年3月に決意発表して36年にその夢が達成された
思い続けること とても大切だし難しい
この長文をタイプしながらだからこそ つきなみだけど「失敗のなかから成功がうまれる」のがよくわかりました。
何回も読み直したい文章です。



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