クレア
今回は「今日のクレア」はお休みにして、昔のクレアを。。。。
イギリスのオミクロン
イギリスではオミクロン株による感染拡大が止まらない。現在のところデルタ株が主流だが、瞬く間にオミクロン株にとって変わられることだろう。
イギリスにおけるオミクロン株による新規感染者数の指数関数的増加のデータをSIRモデルに従って簡単な計算を行うと実効再生産数は約3となる。一方、デルタ株の実効再生産数は同期間で約1とみなされるので、オミクロン株の実効再生産数はデルタ株のものより約3倍高いことになる。西浦教授は南アフリカのデータを用いてオミクロン株はデルタ株より4倍高いと報告している。
さらに接触削減率とワクチンの有効接種率の推定値を用いて基本再生産数を見積もると、オミクロン株は5.6、デルタ株は3.3となる。つまり、オミクロン株の感染力はデルタ株より1.7倍高いことになる。
以上の数値を用いてオミクロン株の感染拡大の条件を計算したものが次の図である。現在までのワクチン接種が10%程度しか効かないと仮定すると、感染拡大を防ぐためには接触削減率を80%以上に上げる必要がある。ワクチンの第3回目接種が急がれる。
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1989年12月のアムステルダム
冬の欧米への海外出張はあまりなかったが、1989年12月7日から10日間の予定でアムステルダムおよびヴァーヘニンゲンに滞在した。昔のことで記憶はかなり薄らいでいるが何とか思い出してみることにした。
この時はスカンジナビア航空を利用した。旅程表を見ると、成田を21:30に出発した後10:10に給油のためアンカレッジに着陸している。ついで11:15にアンカレッジを離陸して翌日の05:45にコペンハーゲンに着いている。さらにここで乗り換えてアムステルダムには11:10に到着している。結局、成田を出てコペンハーゲンに着くまでに20時間20分、アムステルダムまで21時間40分もかかってる。P.C.ホーフト通りに今も存在するホテル・ミュージアムまではタクシーを利用した。
(左)1989年12月7日午後8時半ごろの成田空港出発ロビーの光景
(右)1989年12月8日アムステルダムのホテル・ミュージアムのテレビで見かけた日本アニメ「スプーンおばさん」の1シーン:長女が幼児の頃いつも見ていた。まだ字も読めないのに「スプーンおばさん」のカルタを全部記憶していたのを思い出す。
アムステルダム(前半)
久しぶりのヨーロッパ、しかもオランダはこの時が初めてだったのでかなり気分が高揚したのを覚えている。ホテルの近くには国立ミュージアムやゴッホ美術館があったので早速入館した。当時は西洋絵画にはあまり興味がなかったせいか、レンブラントの「夜警」ぐらいしか記憶にも記録にも残っていない。
(左)国立ミュージアム、(右)大ピンボケのレンブラント「夜警」
ミュージアム広場、ライツェ広場、ムント広場、ダム広場といった定番ルートを通ってアムステルダム中央駅付近まで歩いた。
ライツェ通りからカルファー通りもしくはローキンと思うがハッキリしない。
アムステルダムの街は運河と橋に駐輪した自転車がよく似合う。
(左)聖ニコラス教会、(右)アムステルダム中央駅
(左)ダム広場の西側に建つ王宮:その前のクリスマスツリーは例年ノルウェーのトロンヘイムから運ばれる。
(右)高級デパート、バイエンコルフ
(左)クリスマス一色のバイエンコルフ内部
(右)当時マダム・タッソーろう人形館があったカルファー通りかと思われる。
夜のショーウィンドウには木靴やデルフト・ブルーのディスプレイが美しく映える。
ヴァーヘニンゲン
アムステルダムCSから鉄道でエーデ・ヴァーヘニンゲンまで行き、そこからバスに乗り換えてヴァーヘニンゲンの宿泊施設付き会議場に向かった。15分ほどの道中、一帯は視界10メートルほどの濃霧に覆われ、前方から突然現れてくる対向車と衝突するのではないかと不安になったことをよく記憶している。
着いた翌朝早々に目覚め、ホテルの窓から見た「まだ夜も明け切らぬ霧の街」の光景に息を呑んだ。
この地には3泊した。カンファレンス・ディナーはデルフトのインドネシア・レストランで行われた。余興にインドネシアの舞踊が演じられたが、踊り手は全員オランダ人のようであった。(写真はあまりにも不出来のため省略します(>_<))
アムステルダム(後半)
マダム・タッソー蝋人形館はロンドンを筆頭に世界中に分館があるが、私が入館したのは後にも先にもこの時のアムステルダムの人形館のみである。世界的に名の知れた歴史上の人物、政治家、芸能人、スポーツ選手の蝋人形が展示されている。
ヘルムート・コール、マーガレット・サッチャー、スカルノ、シャルル・ド・ゴール、デヴィッド・ボウイ、マリリン・モンロー、マイケル・ジャクソンでしょうか?
この頃の海外旅行では用務をこなすことだけが精一杯で、観光についてはノー・プランだった。この日もアムステルダム中央駅付近まで歩いてきてふと考えた。そうだ、明日ハーグに行ってみよう!
デン•ハーグ
この頃はデン・ハーグについてはほとんど知らなかった。ここがオランダの政治の中心、かつ国際司法裁判所の所在地であるくらいの知識しかなかった。しかも甘く見てか、地図も持たずにデン•ハーグ中央駅に降り立った。
デン・ハーグ中央駅。ここから山勘でビネンホフ方面に歩いた。
(左)騎士の館と呼ばれる国会議事堂
(右)例年9月、当時のベアトリクス女王が8頭だての金の馬車で到着し国会開会式が行われたというイベントの写真パネル
1989年12月15日のプレイン広場
現在のプレイン広場(Google EarthのStreet Viewより):30年で大きな変貌を遂げている。左側背後にたくさんの高層ビルが建っている。
プレイン広場を横切ってデン・ハーグ中央駅に戻ることにした。
商店街のどのお店もショーウィンドウはクリスマスモード一色だった。
中央駅まで徒歩10分ぐらいのはずだった。ところが途中で方向感覚を失い閑静な住宅街に迷い込んでしまった。道を間違えたと思い後戻りもしたが、うまくいかず混乱の度は増すばかりだった。あたりは薄暗くなり人影もなく少々パニックになりかけた。そんな時、一台のトラックが私を追い越して行った。そしてそのトラックの側面に「日通」の漢字を見た。その瞬間私は妙に冷静を取り戻した。
結局30分ぐらい時間をロスして中央駅にたどり着いた。今なら携帯のGPSで自分の現在の居場所がすぐにわかるのだが、当時は地図は必携品だったのだ。
最後にもう一つハッとした記憶がある。スキポール空港ターミナル内にホランド・ブールバールという通路がある。この辺りは2階も各種のお店が並んでいる。その2階の通路にサンタクロースの格好をしたおじさんが何らかのPR目的で歩いていたのは分かっていた。その状況のもとで、背後にドサッという鈍い音がした。振り返ると、サンタクロースが2階から落としたと思われる白くて大きな布袋が横たわっていた。私の背後2、3メートルのところである。数秒違えば私の頭に直撃していたであろう。空港内でも何が起こるかわかったものではない。
この旅行では、当時まだ9歳と5歳だった娘たちに小さなお土産を買って帰った。
1989年12月、子供たちに持ち帰った小さな風車や木靴の置き物
クリスマスツリーの飾りも買って帰ったが、小さなツリーには不似合いで、結局天井からの「さがりもん」に。。。
この頃は貧しかったしマンションの部屋も狭かったが、子供たちは明るく妻も私も若った。今振り返ってみると、この頃が一番幸せな時代だったかもしれないな。










































