1981年の夏 ーケンブリッジで地元の方言を聞く | PACK RATのブログ

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こちらは退職したあるシニアのブログサイトです。はるか昔の想い出話と無責任なひとり言を書き綴っています。

日陰のクレア

 

この時期、日の出は5時半ごろ。出かけるのが少し遅くなると、早朝とはいえ太陽が照りつけ炎天下の散歩を余儀なくされます。

 

クレアは道の日陰側を好んで歩こうとしますが、それでもたまりかねて道に座り込んでしまいます。

 

  

公園でも日陰となった場所にお座りしたり寝転んでしまって、そこからなかなか動こうとしなくなります。帰りも、日陰の道を選んで歩こうとするので、家まで逆に遠回りになってしまうこともあります。

 

昨日は出発がいつもより30分遅れの7時過ぎになってしまいましたので、いつも以上に地獄の散歩でした。理由は私が午前6時ごろからはじまったNHK BSの番組に熱中してしまったためでした。

 

内容は、ファイザー製やモデルナ製のmRNAワクチンの開発者であるハンガリー出身の女性生化学者カタリン・カリコ氏と京都大学の山中伸弥氏のリモート対談でした。

 

 

mRNAワクチン実用化のポイント

 

私はもちろん門外漢ですが、mRNAワクチンの作製プロセスと生体内での機能発現については、大雑把には以下のように理解していました。

 

1.ウイルスのDNAを鋳型にしてそのスパイク・タンパク質をコードする遺伝情報のみを人工的にmRNAに転写する。

2. mRNAをポリエチレングリコールが主成分のナノカプセルに包んでヒトに接種する。

3.ヒト細胞内のリボソーム上で、mRNAの遺伝情報が翻訳されて1273個のアミノ酸残基からなるスパイク・タンパク質が生産される。

4.ヒトの免疫細胞群が働き、そのスパイク・タンパク質に対する抗体が産生され、その構造が記憶される。

5.その後ウィルスが侵入しても、ヒトの生体防御システムが作動して抗体が生産され、侵入ウィルスのスパイク・タンパク質に結合して、ヒト細胞表面のレセプターとの結合を阻害する。

 

今回の番組を見て、実用化に際して何が問題であったかが分かりました。それは人工合成したmRNAの生体適合性が悪く、生体内で異物とみなされ、炎症反応を引き起こし細胞を死滅させることだったそうです。

 

改善のブレークスルーは、mRNA中のすべての塩基ウラシルをわずかに化学修飾することでした。そうすることで、mRNAの生体適合性が大幅に向上し、生体内での炎症反応(細胞の死滅)も抑えられました。

 

mRNA中の塩基ウラシルだけをすべて修飾してシュードウリジンとすれば、生体適合性が劇的に改善される。

 

旧東欧出身のカタリン・カリコ氏はここまで来るのに大変苦労されたようですが、現在ではこの研究成果により、近い将来、ノーベル賞を受賞するのではないかと予想されています。

 

ちなみに、カタリン・カリコ氏のお嬢さんは、2008年北京および2012年ロンドンで開催された両オリンピックのボート競技エイトの金メダリストだそうです。もしご本人がノーベル賞を受賞すれば、母娘でそれぞれノーベル賞および金メダルの受賞者ということになりますね。

 

 

1981年の夏 〜ロンドンおよびその近郊(1)

 

40年前の1981年7月19日ニューヨークを発って、同日深夜ロンドンに到着しました。7月20日(月)から7月24日(金)までの5日間、ロンドンおよびケンブリッジに滞在しました。今回はその時の回想録(1)です。

 

ケンブリッジ

 

滞在目的はケンブリッジ大学の某研究機関の情報収集と人脈確保でしたので、観光の写真はあまり残っていません。

 

  

キングス・カレッジ

 

  

トリニティ•カレッジ

 

ケンブリッジ大学は、最近はTHEのレポートでは世界第3位の研究機関で、過去にノーベル賞受賞者を120名近く輩出しています。また、オリンピックのメダリストも190名ぐらいいて、そのうちの約90名は金メダリストです。1名はノーベル賞受賞者であり、同時にオリンピックの銀メダリストであったりもします。とにかく歴史のある文武両道のハイレベル大学です。

 

ケンブリッジ地図(本ブログ関連範囲のみ)

 

このケンブリッジの地でおかしな体験をしました。着いた初日、ジム・トンプソンという当時の私と同年配の男性にケンブリッジの街を案内してもらいました。

 

建物を出てしばらく歩くと、トンプソン氏は私に、「ここが昔のキャベンディッシュ研究所で、この中でクリックとワトソンがDNAの二重螺旋構造を解明したんだよ!」と説明してくれました。

 

ジェームズ・ワトソン(左)とフランシス・クリック(右)

 

当時の専門は異なりましたが、これがブレークスルーとなって、現代の分子生物学の飛躍的な発展につながる訳ですから、私はそれを聞いて大いに興奮を覚えました。

 

1953年、暗い研究室の中で、ダブルヘリックスの謎解きに没頭する彼らの姿を想像して、ひと時の研究ロマンに浸っていました。

 

数分歩いて大きな通りに出た時、前から若い男性二人連れとすれ違いました。おそらく観光の日本人だったのでしょう。日本語、しかも私の地元の方言が耳に入ってきたのです。(武田鉄矢さん、タモリさん、もしくは博多華丸・大吉さんのような博多弁です。)

 

私はその頃、1ヶ月近く日本語を話しても聞いてもいませんでした。外国で急に日本語、ましてや地元の方言を聞くと、かなりビックリするとともに、なぜかホットするものです。

 

しかしその時だけはちょっと違いました。私は1953年のケンブリッジにいましたから。。。「わっ、ごめん!ちょっと待って、日本語、博多弁、急に現実の世界に引き戻さないでくれ〜!!」

 

1953年のケンブリッジ、1981年のケンブリッジ、1981年のふるさと、この3ヶ所を私は数分の間に時空を超えて行ったり来たりしたのでした。