棘の刺さったような日々の思い出 | りうりー的房間

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昨日も今日も休日出勤して働くほど忙しい毎日ですが、ない時間を絞り出して角田光代著「タラント」を読了。

面白かった。
そして思い出した。

中国にいた頃、街に出れば必ず物乞いに遭遇した。
そして請われるままに小銭を渡していた。
食事をしている食堂の中にも彼らはふらりとやってきて、テーブルの横で何も言わずただ立っている。
中国人と一緒にいる時は、黙って当たり前のように小銭を渡す人もいれば、邪険に小言を言って追い払う人もいた。

ある時欧米人の友人と街を歩いていると、子どもたちに追い縋られた。
歩きながら小銭を渡そうとした私の手を取って友人は「渡してはダメ。キリがないし、彼らの為にならない」と言った。
だって子どもだし、可哀想だし、私には小銭くらいある、と言い募ると友人は、「ならばあなたは彼らの全てに毎日渡すのか、全ての困った人にお金を分配できるのか」と怒気を含んで言った。
その時既に私の回りには10人を越える子どもたちが取り囲んでいて、手を伸ばしていた。
友人も私も20代そこそこの若者だった。

よくある話である。

今の私ならどうだろうか。
できることをする、と反発するだろうか。
あるいは、知った風な慣れた風な様子で歩みを速めるだろうか。

この本を読んで、どこかにチクりと棘が刺さったようなあの日々を思い出した。
あの頃中国では貧しさを常に目にした。
バスでも映画館でも人々の襟から立ち上るすえた体臭が満ちていたし、自ら体に傷を付けて物乞いをしたり、歩道橋の上で座ったまま亡くなっている人も見た。
何もできない自分が嫌だった。
慣れていくことも嫌だった。
かといって慈善事業に関心があるわけでもなかった。

クソ男と留学生の間で評判だった当時付き合っていたアメリカ人も、物乞いを断らなかった。
時に札を渡していて衝撃的だった。
「こんなクソ男でも!?」と。

できることとは何なのか、持てる才能とは何なのか、使命とは何なのか、この本を読んで随分かけ離れているがあの日々を思い出した。