皆さまご無沙汰しております。
もう9月やん!!
ブログ放置し過ぎてすみません。
ブログの更新が滞りすぎていて、ご心配くださりメッセージいただいた皆さま有難うございました。この場をお借りして、「私もまめも元気でーーーーーす!!!」
ブログに書いていない、色んなイベントや事件は山盛りありますが、今日久しぶりにブログを書こうと思ったのはリオデジャネイロパラリンピックの開会式を今見ているからです。
まだまだオリンピックの興奮冷めやらぬ中始まるパラリンピック。
パラリンピックこそが、人間の身体と心の限界を超えた祭典なんじゃないかと思えてしょうがない。
生まれつき障がいを持っている人、病気や事故、怪我で障がいを負った人、パラリンピックに出場するのは全員「障がい」と今も戦いながら生きている人。
これが、本来の人間の姿なんだ。
私は、障がいを持っていない人間なんていないと思っているし、障がいは個の性質だと思っているから。
語弊があるかもしれないけれど、私は常々「障がい者」と特別視することは世間が作ってしまっているんじゃないだろうかと思ってしまう。勿論、その「世間」には私自身も含まれていて。
どんなふうに産まれてたとしても、人生の途中で自分自身の何かを失って日常生活が困難な体になってしまったとしても、それはその人の「個の性質」で、それが「個性」なのだと思う。
病気の発症で障がいを負われた方は、それもその人の性質なのだと。まめの色素性母斑という病気も彼女の持ち合わせた性質。
その個性を持った人達を辛くさせてしまうのは世間だと思ってしまうことが、まめを産んでからよくある。
今でこそバリアフリーが当然のように言われているけれど、東京でもまだあります。
ベビーカーで乗り換え出来ない駅!
車イスの人、どうするの?!っていつも思います。歩ける人しか使わない前提の場所。私が言いたい「世間が障がい者は日常生活を送ることが大変という環境を作ってしまっているのでは?」っていうのはこういうことです。
「障がい者=日常生活を送ることが大変」っていうイメージは誰もが思っていることだと思いますが、それを作っているのは障がい者と言われない人。
日常生活の大変さがなくなれば、障がいはもっと「個の性質」として考えられるのではないかなぁ。
「障がい」って言われると凄く大変なイメージが大きいけど「個の性質」って言えばもっと受け入れやすくなることって実際にあると思うんですよね。
子供同士で、算数の苦手なお友達に計算の得意な子が解き方を教えてあげるのと同じように、歩くのが苦手なお友達にすっと手を貸してあげられることが当たり前になってほしい。
だって、動かない足のためにリハビリを頑張ったり車イスを乗りこなす練習をするのと、解けない算数の問題に一生懸命取り組むのは同じことだもの。
苦手なことも得意なことも人それぞれ。
病気になる人もいれば、ならない人もいる。
全部「個の性質」なのです。
困っている人をお手伝いする。
それが共存。
パラリンピックの開会式を見ながら、選手たちの輝きに満ちた瞳を見て、彼らの人生の輝きを感じました。
命を輝かせるって、こういうことなのだなぁと。
歩けない子供の「サッカーをやりたい」という夢のために、サッカーが出来るように補助する靴を作ったお父さん。その輪が広がって、歩けない子供のサッカーチームが出来て今では皆でサッカーをプレーしているんだって。
お父さんと一緒にパラリンピックの旗を持って歩いている姿は、希望に向かっての一歩だね!
子供達の笑顔、美しかった!
夏になる前くらいかなぁ。
食事中に突然まめが「まめちゃん、手術やだ!お顔のアザ、取りたくない!!」と泣きそうな顔で私に向かって叫びました。
アザの話も、手術の話もしていた訳ではないのに、急に。
本当に突然に、です。
なんで??と聞くと
「だって、ここが黒いのがまめちゃんだって◯◯くんが言ってたもん!黒いのが無くなったらまめちゃんじゃないんだもん!」
...ようは、「アザがあるのがまめで、それがまめらしさで個性なんだよ」ってお友達みんなが言ってくれるから、手術してアザがなくなってしまったらまめらしさがなくなっちゃうから消したくない!と私に訴えてきたのです。
私が今まで、まめに一生懸命伝えてきたことがこんなふうに実を結ぶなんて。
そして、周りのお友達にこんなに恵まれるなんて。
まめを産んですぐ、物心ついたまめは自分のアザのことを嫌だと思うに決まっている、そして絶対にいじめられるに違いないと思って途方にくれていた私に教えてあげたい!
まめは自分の個性を受け入れることができる!と。
自分というものを受け入れること、そこからまたチャレンジすること、我が子にも教えられる日々です。
まめと一緒にパラリンピックを応援しようと思います!
これが、人間として生きていく素晴らしさだって。