・・・人は思い出す。
・・・あの時、私の隣にいたあの人は、いったい誰だったのだろう?私の隣で微笑み、私と言葉を交わしていたあの人は何者だったのか?
それは、あの頃のいつものの情景だ。でも、今、ふと感じるのだ。
・・・その景色が、その人たちが、実は特別のものだった、と。
なぜ、あの時、私はそれをそのようには感じなかったのだろう?あの時、私は、何かこの上なく大切なものを、いとも簡単にやり過ごしてしまったのだ。それに目もくれず。何も気づくことなく。迂闊(うかつ)だ。
唯一で二度とない何かは、私の傍らを、気づかれることもなく、通り過ぎた。
おそらく、誰もが、今、あの時の私のように、何かとても大切なものを見過ごし続けている。それを見ずに、些事に目を奪われて、自分だけでなく、大切な人たちをますます不幸にする。ディスコミュニケーション以前のもっと何か根源的な勘違い。
だが、幸運に恵まれた時、人は、思い出す。
・・・そうだ。あの時、私の隣にいたあの人は、「あなた/Du」だった、と。
そして、もちろん、次のようにも思い至る。
・・・そうだ。今、私のそばにいるこの人は、「あなた/Du」なのだ、と。
これは、いわば、未来の記憶なのだ。
・・・・・・・・・
音楽において、思考と感情と意志とが、一つのものになる。いわば、音楽が生まれるとき、それまで生きた結びつきを失って混乱していた思考と感情と意志が再統合される。
そこに姿を現すのは、新たなる霊的人間そのものである。彼においては、もともとネガティヴであった情念さえもが、高貴な在り様となって、彼の一部となる。
彼/音楽が生み出される時、その創造の営みに関わるのは、その音楽作品の作曲者のみではない。
というのは、例えば、ベートーヴェンでさえ、時代の子であり、民族の子であることを、忘れてはならない。そういうことなのである。つまり、ベートーヴェンの中に時代の空気とゲルマン民族の魂が生きているということだ。
しかし、もっとも大切なことは、そうした時代と民族の精神的土台の上に、ベートーヴェンの核心部分、ベートーヴェン自身の霊的自我が、屹立(きつりつ)しているということにある。
この創造的なコンテキストこそが、人間の歴史の核心部分だ。