Paradiso/天国
“はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。”(「創世記」第1章)
「創世記」の語る原初の二分法。天と地、光とやみ、昼と夜、そして夕と朝。これらの象徴文字を自然科学的に説明することは不可能だし、そうした悟性的思考をこのような象徴文字に関して為すこと自体、狂気の沙汰である。
準備のできた魂において、これらの象徴文字は自ら語ることを始めるのである。純粋思考を成すのだ。
・・・天国とは、純粋思考の世界、すなわち霊の世界である。だから、悟性的思考を弄して、天国のことを知ろうとするなど無粋の極みである。
Inferno/地獄
1 わたしはわたしが何者であるかを忘れてしまった。そのように忘れているので、いつ忘れたかも忘れてしまったのだ。
だが、忘れたことを自覚してはいるのだから、わたしが何者であるか、心の片隅では忘れていないのだろう。
聖書の神がかつて自らについて、「わたしはわたしであるところの神である」と語ったように、わたしがわたしに他ならないことをわたしはやはりおぼえているのだ。
だが、通常の生活の場で、わたしはわたしであるとは表立って主張したりすることはない。ミーム空間において、「わたしはわたしだ」ということには何の意味もないからだ。ミーム空間においては、ペルソナのみが機能できるのだから。
しかし、わたしがわたしであることを忘れ、何らかのペルソナになりきってしまうことから、数限りない不都合が生まれてくる。
ミーム空間を多かれ少なかれ共有するわたしたちのだれもが、自らのわたしを忘れて、ペルソナになりきることに汲々としているから、もはやそれは一人だけの不幸ではなく、それこそみんなの不幸になってしまう。
なぜなら、ペルソナは人間そのものではなく、わたしやあなたそのものでもない、いわば人工的な作り物だから、突き詰めて言えば「それ/Es」に他ならないから・・・それは本質的に、唯物論とエゴイズムによって貫かれている。
わたしはペルソナをまさに生命のない物のようにあつかい、操作して、楽をしたり、気持ちよくなったり、競争に勝とうとしたり、金儲けをしようとしたり、・・・そのようにエゴイズムのために物を利用する。ミーム空間のアルゴリズムは、そのような論理で貫かれているのだ。唯物論とエゴイズム。
わたしは天国にとどまっているのではなく、この地上の世界に生きているので、何らかのペルソナとして、やはり何らかのペルソナを演じる他者とかかわる。
だが、この地上の世界は、何らかの(いくつもの)ミームのアルゴリズムによって駆動しているのだ。唯物論とエゴイズムに貫かれたアルゴリズムの生み出す、いわば魔術的空間。アーリマン/唯物論とルシファー/エゴイズム。
2 ともあれ、わたしはわたしを離れて、ペルソナと成る方向へと舵を切ったのだ。ペルソナに成りきるには、ミームの海を航海し続けなければならない。唯物論とエゴイズムの海だ。聖なるものに対して、俗なるものが勢いを増してくる。
わたしの情念と情欲の勢いはとどまるところを知らない。自らの目指すペルソナの理想像を実現するためには、手段を選ばなくなる。
だが、ペルソナはわたし自身ではない。わたしがわたし自身を忘れて、ミームの海へと乗り出したので、何だか居心地の悪い感じがずっとつきまとうのだ。見切り発車だったという感じが、いつまでも残っていて、心がうずくのだ。
そのように船出を急かしたのは、誰だったのだろう?わたしが焦っただけなのか?誰かが焦らせたのではないか?
いやいや、この地上の世界に生まれた以上、ミームの空間に生きるのはやむを得ないことだろう。坊さんだって、この地上の世界を生きている。
問題は、どのように生きるか、という一点だ。
“・・・イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。・・・”(「マタイによる福音書」第4章)
つまり、人は「パン(もの/ミーム)」だけで生きるのではなく、「神の口から出る一つ一つの言(ことば)」すなわち精霊であり純粋思考であるものによって生きる。
だから、簡明な言い方をすれば、この地上に生まれた以上、ペルソナとしてミームの海を航海しなければならないが、自らの高次の自我を覚醒させなければ/想起しなければ、人はアーリマン/ルシファーの世界に呑み込まれ、破滅する/地獄に落ちるということだ。
ペルソナは一見便利な乗り物だ。だが、それは本質的に融通が利かず、多くの場合、自らのみならず他者をも害する。ペルソナ同士がぶつかり合い、傷つけ合い、その争いは際限がない。
わたしは恣意的に見出し、選び取ったペルソナへの依存度を高めていく。また、そのペルソナを理想に近づけるために選んだ様々なツールへの依存の度合いも深まっていく。これが、いわゆる依存症というものの原理的なあり方である。それらのツールに依存することで、わたしは安心し、一時的な安定感と安堵を享受するのだ。
だが、それらのツールを失うことに対する不安感は募り、実際、ツールの神通力はやがて失われて、わたしはまたしてもパニックに陥るのだ。そして、次なるツールを物色し始める。なんだかドクター・ショッピングか何かのように。薬物乱用みたいに。
3 ペルソナを理想形に近づける過程で、わたしは自らの内なる不都合な要素、不快な要素をシャドーとして外化する。
「それはわたしではない」「それはあいつのせいだ」「わたしはよくて、他のだれかがわるい」「わたし以外のみんながわるい」。何もかも他者のせいになってしまう。
自分の中をポジティヴな要素とネガティヴな要素に区分けして、ポジティヴな要素からペルソナをこしらえる。そしてネガティヴな要素を排除して、シャドーとして外に出す。シャドーはわたしではないことにする。シャドーは他者に投影されて、外からはね返ってくることになる。だが、元はと言えば、すべて自分の中にあったものだ。
このペルソナとシャドーの根源的な二分法を媒介にして、わたしはミームの海を航海し続ける。「ペルソナ自分」と「シャドー自分」の一人相撲。わたしはペルソナに同化しているから、シャドーは自分であるにもかかわらず、そのことを自覚できない。だから、シャドーは他者のように感じられ、場合によっては、無意識の深みからペルソナを脅かすかのように感じられる。
ペルソナは四六時中、シャドーの攻撃から自らを守らなければならないという強迫観念にとらわれている。自分を守ることに汲々としているのだ。これこそがエゴイズムの核心である。ペルソナは自分を守るために、シャドーに戦いを挑む宿命だ。そして、シャドーに挑んだ戦いの剣がそのままはね返ってくる。急所を突いてくる。それに恐れをなして、ペルソナはそのぶん過剰に防御し、過剰に反撃する。戦いはエスカレートしてゆき、やがてカタストローフへと至る。
Purgatorio/煉獄
“・・・だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。・・・”(「マタイによる福音書」第6章)
ミームに依存し続け、ペルソナとシャドーに分裂して一人相撲を続ける限り、人が霊に目覚めることはない。
つまり、ミームへの依存が終わりを告げ、ペルソナとシャドーとが再び統合して、全的な自我への道が開けるならば、そのとき人は霊に目覚めるのだ。
この道行きは一朝一夕にして成し遂げられるようなものではない。
幾多の試練を経て初めて、その入り口に到達するのだ。
この地上の世界にだけ現出するこれらいくつものミームこそが、わたしたちに課せられた(課された)霊的試練に他ならない。
わたしたちは、それらの試練/ミームを通過してゆく。
この地上の世界は、おそらく無数のミームによって成り立ち、駆動している。いったいどれほどのミームがあるのか、あるいはあり得るのか、だれにもわからない。おそらく、それらのミームが相互に関わり合って、駆動していると想像するが、どんなミームが他のどんなミームとどのように関わり合っているか、だれにも見通すことはできない。
しかし、だからと言って、ミームの全体像を鳥瞰/俯瞰したり、錯綜するアルゴリズムの全体図/マップを描くことはできなくても、それほど悲観するには及ばない。
問題に直面するたびに、自らの意志的な思考を働かすことができさえすればいいのだ。
ミームの首根っこさえつかんでいればいいのだ。
アーリマンとルシファー、唯物論とエゴイズム。
ペルソナとシャドー。依存症。
そもそもミームというものは、人間が魂なる場所を有するようになって以来、その他ならぬ魂の内に巣食うようになった、本来は人間にとっては外なるものである。人間の自我からしてみれば、他者以外の何ものでもない。しかも、ミームは人間ではない。動物でも植物でもない。鉱物的ではあるかもしれないが、鉱物でもない。
だからミームは自然科学の観察対象ではない。
いずれにしても、人が自らの内と外とを区別するようになったときにはすでに、ミームはその人の魂の内に浸潤している。そして人は、ミームという寄生者の目で自らの内外(うちそと)を観察して、自らの立ち居振る舞いの在り様を決定するのである。
このとき設定された内外(うちそと)の境界線上に、ペルソナが出現する。つまり、ペルソナとはその人の内側と外側とを関係づける方便なのだ。それは他者との関係性の中で初めて成り立つ。
だが、ペルソナが相対する他者/外部とは、その人が過去のいずれかの時点で自分で疎外し排除したもの、もともとは自分の中にあったもの、つまりシャドーだ。
だから、人が自らの内と外を区別するようになるそのときには、すでにミームが浸潤しており、ペルソナとシャドーの一人相撲が始まっているのである。これが、依存症の起点である。エゴイズムの特徴は、他ならぬこの依存症であり、人はこの地上の世界に存在するあらゆるもの/物に依存するのである。これが唯物論/マテリアリズムの特徴である。
マテリアリズムの世界では、あらゆるもの、あらゆる事柄が、物(もの)的な性質をもつ。霊でさえも物的に空想される。そのようにして、霊は抹殺されるのだ。
エゴイズムは損得(そんとく)の世界だ。損を回避し、何事においても得しようとする。
衣・食・住のすべての領域において、損得のベクトルがはたらく。
勝負に負けてはならない。競争に敗れてはならない。
強くなければならない。より強くならなければ負けてしまう。馬鹿にされる。最強にはなれなくても・・・
いずれにしても、もの/物なしには済ますことができない衣・食・住の領域、日常生活の領域においては、エゴイズムとマテリアリズムがまかり通って、ペルソナ同士が競い合い、またその競い合いの本質はペルソナとシャドーとの間で成される一人相撲だ。
他者との競い合いとアストラル的な一人相撲という、このいわば体的・魂的な生存競争の土台とその舞台を提供する存在こそ、アーリマンとルシファーに他ならない。
私たちは受肉することを通して、アーリマンの世界である地上の世界に至った。鉱物界に降り立ったのである。
鉱物界は、重力と三次元空間によって枠組みがなされており、ミームのすべてのアルゴリズムがこの枠組みを前提として組み立てられる。
このような鉱物界において、生命/植物界と魂/動物界とは、いわば想定外の変数なのだ。だから、自然科学的思考は植物と動物の謎をいまだに解くことができない。このような自然科学的思考で思考している限り、私たちは植物や動物たちと好ましい関係を築き上げることはできない。実際、私たちは自然を破壊し続け、植物や動物をいわれなく搾取し続けている。楽をして生活したいがために。
できるだけ楽に目的に到達したいという欲求の権化が、コンピューターである。
この二進法/アーリマンのモンスターは、今や私たちの生活のあらゆる領域に進出し、もはやこれなしに私たちは日常生活を送ることができなくなった。
そして、あろうことか私たち自身の悟性的思考が、二進法的アーリマン的怪物であるコンピューターの機械的アルゴリズムに似たものに成り下がろうとしているのだ。
驚くべき事態が進行中だ。
なにも、ICチップが組み込まれた弾道ミサイルや無人兵器だけが、人類の未来にとっての脅威なのではない。
それらを自らの利害のために使用しようとする人間の思考のあり方こそが、悪魔的なのだ。
そのような思考のあり方は、なにも武器や兵器、戦争の場面だけで問題になるのでなく、私たちの日常生活のすべての領域において、このようなアーリマン的思考が蔓延っているのである。
この現実に目を向けなければならない。
ところが、このようなアーリマン的思考に貫かれたミームに浸潤されている私たちの魂には、このアーリマン的現実がむしろ快いものとさえ映るのである。
悪魔のソネット/Sonnet Diaboli
二つに切って こっちを隠すよ
ほら もう 無いだろ
だから こっちだけで 行こうぜ
おいおい あと十行 足りないぜ ・・・
天使のソネット/Sonnet Angelicus
ある朝 天使が ささやいた
・・・はじめに 神は 天と地とを 創造された。
地は 形なく むなしく やみが 淵のおもてにあり 神の霊が 水のおもてを おおっていた。
神は 「光あれ」と 言われた。
すると 光が あった。
神は その光を 見て 良しと された。
神は その光と やみとを 分けられた。
神は 光を 昼と 名づけ やみを 夜と 名づけられた。
夕となり また 朝となった・・・
神でさえ 二つに 切り分ける
分けてもいいが 依怙贔屓(えこひいき)は だめだ
光は 霊 そして やみは 「それ/Es」
光が やみを 照らす
そして やみが 七色に 輝くのだ
ただ それだけの ことだ