ミームの呪縛 | 大分アントロポゾフィー研究会

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ミームは部分的/限定的真理である。とりあえずそのように言っておこう。便宜的な言い方である。

ミームの根底には、根源的な疎外感が潜んでおり、その性質上、反感に根差し、諸々の情念とそれらの情念に分かちがたく結びついた魔術的なイメージが翼を広げている。

部分的/限定的な真理が、自分を包括的な真理であると主張するとすれば、当然のことだが、それは嘘である。

これこそがアーリマン/ルシファーの巧妙な罠である。

 

“こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。そして夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。”(「マルコによる福音書」第5章)

 

イエスが「けがれた霊につかれた人」に出会う。

この人は、一般的な言い方をするならば、気が狂った人である。別の言い方をするなら、クンダリニー症候群に苦しんでいる。その証拠に、「彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。そして夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた」。ちょうど、ヨーロッパ中世の神秘主義者たちのように。鞭打ち修行者たちのように。

 

彼は、イエスを見るなり走り寄って敬意を表し、「いと高き神の子イエスよ」と大声で叫ぶ。初対面でイエスの正体を見抜くのは、彼に憑りついているけがれた霊/悪霊が、アーリマン/ルシファーである証拠だ。彼は悪霊に憑りつかれ、苦しんでいる。誰一人、彼の苦しみの因って来たるところがわからない。そして、彼自身、自分がなぜ狂気に陥っているかわからず、いかにして正気に戻るかその術がわからない。

彼が混乱していることが、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」という彼自身の言葉からわかる。彼がイエスに助けを求めていることは確かだ。イエスを恐れつつ。彼の口から出る言葉はむしろ、アーリマン/ルシファーの言葉である。ごっちゃになっているのだ。

 

アーリマン/ルシファーは、彼の魂の中に入り込み、そこにミームを蔓延らせる。彼は半ば以上そのミームと同化する。その同化は簡単には解けない。

だが、彼はそのような同化を潔しとしない気持ちをもつが故に、自らその同化を断ち切ろうとする。だが、できない。

やがて彼には、クンダリニー症候群の諸症状が現れる。

「なんという名前か」とイエスに尋ねられ、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と彼は答える。クンダリニー症候群の現れとしての意識障害が起こっているのだ。複数のミームが彼にそのように言わせている。

 

イエスには、彼の魂に巣食ったミームから彼を解放させることができたのである。

イエスはロゴスであり、生きた思考そのものである。

ミームから抜け出すためには、その嘘を見破ればいい。それは生きた思考によってのみ可能である。純粋思考である。

アーリマンとルシファーのもたらすものが、キリストのもたらすものといかに違っているか、それを目の当たりにすればいい。アーリマンとルシファーはそのことをよく知っているので、嘘をつくのだ。その嘘を真に受けるか否かは、あなた次第だ。あなたが純粋思考を成すことができるかどうかにかかっている。

純粋思考を成すことができれば、アーリマン/ルシファーの嘘を見破ることができる。その嘘に気づくか否か、そこが分水嶺である。

 

通常、あなたはアーリマン/ルシファーの嘘から成るミームと同化しているから、その気づきが始まると、あなたはそれらのミームの集合体と自分とが別物であるとわかってくる。

これはまさしく例外的な状況なのである。なぜなら、現代においてもなお、通常、人間というものは自らの高次の自我に目覚めることなく、悟性魂/心情魂の状態にとどまっており、自らの魂に巣食ったアーリマン/ルシファー由来のミームに囚われ、同化したままだからである。

 

しかし、意識魂の時代は始まったのだ。

それは、悟性魂/心情魂が意識魂へと変容を遂げる時代である。そのスピードは人によってまちまちだろう。

いずれにしても、人はそれまで同化し、そのアルゴリズムにしたがって行動していたミームと決別する。

その人にとって、まさしく初めての経験である。しかも、それは人類史的な出来事でもある。

 

クンダリニーがいまだかつてなく活性化して、言語化されざる生命としての思考が沸き立ち、奔流のようになって、人体を貫く。霊的衝動に端を発する思考と生命の奔流である。

 

それまでいわば拠り所してきたミームとの同化は解かれ始め、初めて現れた霊的衝動に端を発する思考と生命の流れをコントロールすることが、あなたにはまだできないとすれば、・・・そのときには、イエスによって癒されることになったあのゲラサ人と似た状況に陥る可能性が高い。そのときあなたは、通常の生活を送ることがむずかしくなる(かもしれない)。

 

“人間のエーテル体を構成する要素は、たえず動いています。きわめて多くの流れが、あらゆる方向に向かってエーテル体を貫いています。このような流れによって、生命は維持され、制御されています。生きている物質体はすべて、このようなエーテル体を備えています。植物と動物も、エーテル体を備えています。注意深く観察すれば、鉱物にすら、エーテル体の徴候を認めることができます。

人間が物質体の心臓や胃の活動を自由意志によって支配できないのと同じように、このようなエーテル体の流れと動きは初めのうちは、人間の意志や意識からは完全に自立しています。

私たちが超感覚的な能力を身につけるための訓練を始めないうちは、エーテル体の流れと動きは、私たちから独立しています。そしてある高次の発達段階に到達すると、私たちは、意識から独立しているエーテル体の流れと動きに、私たち自身が意識的に生み出す要素をつけ加えるようになります。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 160)