文脈イメージが、あなたの意識だ。
文脈イメージがなければ、意識はない。
あなたが見ているその景色に、ミームが現れている。
そのようにあなたは見ている。あなたが見ているその景色が、ミームに他ならない。
なぜあなたはそのように見るのか?
ミームの文脈イメージゆえに。そのようなあなたの見方に、ミームが現れている。
もちろん、見方と見え方とは同一のミームである。
つまり、この場合、意識のスクリーンと、そのスクリーンを見る自我/主体とを区別することはできない。
通常、あなたの高次の自我は目覚めていないから、あなたはミームと同化して(ミームに依存して)、日々の暮らしを営む。
ミームは寄生虫のようにあなたの魂に巣食い、あなたの意識のスクリーンに登場するイメージを統括し、それらのイメージを見やる、そのあなたの見方を拘束して、あなたを縛る。
あなたはそのようにして、本質的に他者であるミームに主導権を奪われ、主導権を明け渡し、我を忘れる。そして、そのような状態に陥っているという自覚がない。白日夢の中にいるのと変わらない。
一つの文脈イメージが、一見、別の文脈イメージを生み出すかに思われる。
だが、それらの文脈イメージは別のものではない。一つの文脈イメージが、ただ続いているのだ。
あなたの今生の地上の生が、ただ続くのと同じことである。
高次の自我が目覚めぬかぎり、ありきたりでかわりばえしないいつもの日々が続くだけだ。
あなたはそんな日常に退屈して、とりあえずいろいろな言い訳をこしらえながら、新奇(しんき)な無意味に救いを求める。
そして、必ず失望して、またぞろ別の無意味なものを追い求める。
文脈イメージの迷宮である。