とあるショッピングモールでサンマを探していた。
今日は朝9時過ぎに家を出て、とある神社の湧水で水汲みをした。
それから母の入所している老人ホームに面会に行った。「なんもすることがないから、ずっと寝ているよ」(母)。
施設を後にして、今は誰も住んでいない実家の窓開けをした。庭にはまた草が生えた。置きっぱなしのまごの手を持って帰る。自分が使うために。
妻の好きなザボン漬けを買いに行く。
それから、そのとあるショッピングモールに行った。久しぶりの外食。
なぜサンマを探しているかというと、妻の父親が食べたがっているから。
まあ、そんなわけで、今日一日のスケジュールが決まっていた。
誰もが何らかの目的で家を出発する。
ショッピングモールですれちがう誰もが、それぞれ何かの目的で、何かを探して、何かを求めて歩き回っているわけだ。
何の目的もなしに歩き回っているわけではない。夢遊病の人だって、その夢の中で何かを求めているに違いないのだ。
いろいろな生活場面がある。
どんな生活場面においても、人は必ず目的意識的に動いている。
無数の生活場面と人一人一人の違い故に、私たちの生活というものがそもそも何なのか見きわめることは不可能であるとはいえ、私たちが常に何かに急かされ、追い立てられるようにして、いわば目的の無目的みたいに、大切な何かに気づかずに、時間を無駄にし続けている。
駅前の交差点で信号待ちをしていると、目の前の横断歩道をたくさんの人が渡っていた。
この人たちもまた、何か目的があって家を出て、今歩いてどこかに向かっている。
その光景を、私は目の当たりにしているのだ。
一体、大切なことは何なのか。
魂の内と外にあふれかえるイメージの洪水で目が眩んでしまう。
ミームが生み出し、ミームに囚われ、そうしたミーム由来のイメージが私たちの生活空間にあふれ、私たちの生活場面を支配しているのだ。
ミーム空間だ。この空間においては、複数のミーム、そのアルゴリズムが重層化している。そして、ミームのこうしたあり方を人は思考だと勘違いしている。思考とミーム、思考とアルゴリズムは区別しなければならない。
私たちが何かの目的で家を出る。例えば、買い物に出発する。
実のところ、その目的なるものは何らかのミームから来ているのだ。あなたが本当に自分で考えた目的ではなく、ミーム由来の何らかのイメージがあなたの魂に去来したのだ。そして、あなたはそのイメージのいちいちに、ほとんど条件反射的に反応する。
そのように私たちはミームから来る様々のペルソナを生きている。ペルソナは思考体ではなく、イメージの一種である。だからそれは、実体ではなく表層的である。仮象である。唯名論のように。ポスト・モダンは、ペルソナやイメージのそうした恣意性を反映している。