初めに 分裂が あった・・・カスパー・ハウザー伝説 2 | 大分アントロポゾフィー研究会

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原初(げんしょ)の 傷口(きずぐち) ・・・

 

わたしが「わたしとしてのわたし」と「それとしてのわたし」に分かれたその時、魂としての自我に亀裂が走り、その傷口からは今もなお血が流れている。

その傷は絶え間なく痛み、ことあるごとに私たちを責め苛む。

だが、たしかに私たちは生まれたのだ。

 

だが、いったいどこに?

 

そうだ。私たちは間違いなく、ここがどこなのか知るための旅に出発したのだ。

この旅は、「それとしてのわたし」、そう、数限りない「それとしてのわたし」とすれ違い続けて、やがて「それではないあなた」との出会いに至る。

そしてその人が、ここはどこなのかをあなたに告げる。

そしてあなたは、人生の意味を悟るのだ。

 

“たとえばある人が、神秘学の小道において、かなりの進歩を遂げているとします。その人は、魂の目と霊の耳が開く直前の段階にいます。それからその人は、穏やかな海の上を(あるいは荒れている海の上を)航海する機会に恵まれます。すると、それまでその人の魂の目を覆っていたものがなくなります。その人は突然、霊視できるようになるのです。同様に別の人が、あとは目を覆っているものを取り去るだけ、という段階にまで到達しているとします。この人の場合は、強い運命の打撃によって目を覆っているものが取り除かれます。別の人間がこのような運命の打撃を受けると、その影響によって力は萎え、エネルギーは奪われてしまったかもしれません。しかしこの神秘学の学徒にとっては、運命の打撃が啓示を受け取るきっかけになるのです。

三番目の人は、辛抱強く待ち続けます。その人は何年ものあいだ、目立った成果が得られないまま、じっと待ち続けています。すると突然、穏やかな気分で静かな部屋に座っているときに、その人のまわりに霊的な光が現れます。部屋の壁は消え、魂的に透明になります。そして新しい世界が霊視できるようになった目の前に広がり、さらにこの世界が霊的に聞くことができるようになった耳に向かって、霊的な音となって鳴り響きます。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 110,111)

 

「魂の目」- イマギナツィオーン - 「霊視」

「霊の耳」- インスピラツィオーン - 「霊的に聞くこと」

「その人の魂の目を覆っていたもの」- ミーム

「その人のまわりに霊的な光が現れます。・・・魂的に透明になります。」- 意識魂の目覚め。純粋思考としての自我の光。

 

原初の分裂は疎外であり、疎外の本質は「それ/Es」にある。

数限りない「それとしてのわたし」「それ/Es」。

あなたは何度も「だれ?」と尋ねるが、「それとしてのわたし」は必ずその素性を偽る。ここに疎外の大きな特徴がある。

相手がだれなのか分からず、自分がだれかも分からなくなったあなたに、アーリマンが差し出すものがミームである。本来の思考の代用物、偽物の思考だ。「それ/Es」の集積である。その本質は死に他ならない。

 

さて・・・いずれにしても私たちは、自らの魂において、アーリマン/ミームと関わり合うことをとおして、日々、死を体験しているのである。

私たちが、アーリマン/死に対峙し、抗する力を自らの内に生み出すことができないならば、私たちは遅かれ早かれ、ニヒリズムへと至る。

 

“人間は、ルツィフェルの働きを自分の内部に担うことによって、その影響がなければそうありえたであろうときよりも、もっと善でないものへ誘う誘惑者を内部に担うようになり、その影響がない場合に判断し行為したであろうときよりも、もっと激情と情熱と欲望とから判断し行動するようになったのです。この影響によって、人間本来の個性は、あるべき状態に存在するときよりもいっそう「欲望の世界」に埋没するようになり、はるかに深く、地上の物質界に引き込まれるようになりました。人間はルツィフェルの影響を受けて、身体の中に深く入っていき、身体性と自分とを同一化するようになりました。もしルツィフェル的存在の影響が生じなかったなら、地上の人間は現在のように、いろいろなものを欲求したりはしなかったでしょう。いろいろな誘惑があったとしても、その傍らを平気で通り過ぎたことでしょう。ルツィフェルの影響によって外なる感性界の誘惑が生じ、人間はこの誘惑のとりこになってしまったのです。その結果、自我によって形成された人間個性にも、ルツィフェルの作用がそのすみずみにまで及ぶようになりました。人間は地上に受肉するようになって以来、ルツィフェルの誘惑の下にあり、その誘惑を、転生を通して、のちのちの人生の中にまでもち込みました。こうしてルツィフェルの誘惑の下にあるということが、「人間のカルマ」の本質の一部分になったのです。

そのままでしたら、人間はますます深く地上の物質界と結びついて、そこから抜け出す見込みがなくなってしまったことでしょう。しかし後にキリストの影響がこのルツィフェル原則に対立して働き、このルツィフェルの影響から脱する手段を、人間はふたたび手に入れることができるようになったのです。”(ルドルフ・シュタイナー『カルマの開示』高橋巖訳 春秋社 p. 79,80)

 

「もっと善でないものへ誘う誘惑者」

「もっと激情と情熱と欲望とから判断し行動する」

「いっそう『欲望の世界』に埋没する」

「はるかに深く、地上の物質界に引き込まれる」

「身体の中に深く入っていき、身体性と自分とを同一化する」

「いろいろなものを欲求する」

「ルツィフェルの影響によって外なる感性界の誘惑が生じ、人間はこの誘惑のとりこになってしまった」

「人間はますます深く地上の物質界と結びついて、そこから抜け出す見込みがなくなってしまった」

 

このように、ルシファー/センチメンタリズムについての語彙を、シュタイナーは列挙している。

これらの言葉からも、ルシファー/センチメンタリズムが、霊界/精神界ではなく、地上の世界へのベクトルをもつことが読み取れる。

 

そして最後の部分、「後にキリストの影響がこのルツィフェル原則に対立して働き、このルツィフェルの影響から脱する手段を、人間はふたたび手に入れることができるようになった」とあるのは、他ならぬ純粋思考である。

人間は自ら純粋思考を成すことにより、ルシファーの誘惑という試練を克服する。

そして、「人間のカルマ」という事柄の意味するところが明らかとなる。