生活のオデュッセイア・・・カスパー・ハウザー伝説 3 | 大分アントロポゾフィー研究会

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例えば 音楽が人類の記憶を呼び覚ます・・・

 

極端な言い方をしたい。そもそも今の人間は、必要な語彙をもっていないから、やむを得ないのだ。

 

自我は思考である。このことを端的に述べたのが、デカルトの「我思う、故に我在り」である。

思考と出来事は同質である。

出来事と生活は同質である。

生活は、ドイツ語では Leben 、英語で life で、ともに「生活」「生命」「生」「人生」などの意味を包含している。だから、ここで「生活」という言葉を使う場合、この日本語の単語のいわば背後には、ドイツ語や英語で包含される様々諸々のニュアンスが響いているとイメージしてほしい。

出来事の中に生活があり、生活と出来事とは同質である。

 

生活は、霊/精神-魂-肉体/物質体のつながりの中で営まれる。

自我-アストラル体-エーテル体-物質体の中で生活は成される。

 

例えば ショパンの作曲したものは人類の記憶である。

彼がそれらの音楽を自分の満足や見せびらかしのために生み出したのでないことが明らかだから。

そのような彼の音楽が霊と精神の高みに達していることが明らかだから。

ときに人がそのような彼の音楽を嫌いになることがあったとしても、その音楽からは霊と精神とが変わらず鳴り響いているから。

そんなショパンの音楽は、純粋思考の(ための)音楽なのだ。つまり、純粋思考を以て聴き、演奏しなければならないのである。

 

生活するためには、影のような思考つまりアーリマン/ルシファー由来のミームではだめだ。

たしかにミームによって、ただ漫然と食べては眠り、そのための金を稼ぐ、ただ金を稼ぐために働くといういわばルーティン化した生活はできるかもしれない。

だが例えば、自分の子どもをもうけ、その子どもを育て、そして自立させること。

また他者とあるべき関係性をうち立てること。

また、老境にあって自らの地上生の黄昏(たそがれ)を静かに観照すること。

そうした人生の節目となる事柄に対峙するのに、ミームは役に立たないどころか、大きな障害となる。

 

アーリマン/ルシファー由来のミームは、反感に根差し、そこからネガティヴサイクルのアルゴリズムを繰り出す。

私は私を疎外した。それ以来、私は不全感をもち続ける。

誰もがこの自己疎外と不全感のメカニズムに囚われている。そしてこの欠落した感じを埋め合わせしようとして、勝ち目のない戦いを始めるのだ。一人相撲であり堂々巡りだ。心は虚しいままで、あなたは理由のわからない焦燥感に苛まれ続ける。

やがて、人生は無意味だという薄ら寒い感慨が、あなたの魂を支配する。

 

このあたりの流れはいい年をした大人なら、たぶん誰もが知っていて、それ故、そのネガティヴサイクルをやりすごすために、いろいろと誤魔化しを思い巡らしたり、他者に八つ当たりしたりする。そうしたことのすべてがばかばかしいと知りつつ。

 

これは実のところ、生と死の深淵に他ならない。

アーリマンが死のアルゴリズムを設置する。ルシファーは人間のアストラル体に巣食い、反感に根差す多種多様の情念を、アーリマン由来の死のアルゴリズムの駆動源として提供する。死のネガティヴサイクルが、こうして回転するのだ。

そして生活は荒廃したものになってゆく。荒地から砂漠へ。

 

疎外された人間は疎外する人間になるか、さもなければ疎外され続ける人間として退却する。

疎外されるとはアーリマンによって意志的思考を奪われることである。

疎外する人間とは、いわばアーリマンに憑依された人間である。

 

“神秘学の訓練を行う環境についても、いくつかのことを述べておきましょう。なぜならそこには、さまざまな重要な事柄が含まれているからです。神秘学の訓練を行う環境は、訓練をする人ごとに異なっています。エゴイスティックな感情が(たとえば現代的な生存競争が)満ちあふれている環境のなかで訓練をする人は、このような感情は魂の器官の形成に何らかの影響を及ぼす、ということを意識しておかなくてはなりません。たしかに魂の器官のなかで働いている法則はとても強固なものなので、エゴイスティックな感情の影響を受けたからといって、大きな障害が生み出されることはありません。成長のに適さない環境のなかにあっても、ユリがアザミに変わることがないのと同じように、現代の都市に特有のエゴイスティックな感情の作用を受けたとしても、私たちの魂の目が、あらかじめ定められているのとは別のものに変化することはありません。

しかしたとえどのような状況で生活しているとしても、神秘学の学徒が、ときどきは自然の静かな安らぎや、自然の内に秘められた気高さと美しさのなかに身を置くようにするのはよいことです。緑の植物や、太陽の光に照らされた山や、素朴な自然の好ましい作用に取り囲まれて神秘学の訓練をする人は、恵まれた環境にいるといえます。このような環境をとおして、私たちの内面的な器官は、現代的な都市では生じない調和のうちに発達していきます。少なくとも子どもの頃にモミの森の空気を吸ったり、雪で覆われた山の頂を見たり、森の動物や昆虫の穏やかな活動を観察した人は、町で育った人よりも有利な状況に置かれています。どうしても町で生活しなくてはならない人は、形成されつつある魂の器官に、霊学によって伝えられる霊的な教えを養分として供給することを怠ってはなりません。毎年春に、緑の森を毎日観察することができない人は、その代わりに、バガヴァッド・ギーターやヨハネ福音書やトマス・ア・ケンピスの崇高な教えや、霊学の成果をとおして伝えられる事柄を心のなかに受け入れる必要があります。霊的な認識の頂点に至る道はたくさんありますが、私たちはかならず正しい道を選ぶようにしなくてはなりません。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 109,110)

 

「エゴイスティックな感情が(たとえば現代的な生存競争が)満ちあふれている環境」とは、アーリマン/ルシファー由来のミームに沿うかたちで今まさに私たちの目の前に展開している現代の社会に他ならない。

「このような感情(エゴイスティックな感情)は魂の器官の形成に何らかの影響を及ぼす」とシュタイナーが語るように、自ら疎外し、そして他者を疎外する反感に満ちたエゴイズムは、自分にも他者にも破壊的に作用する。

たしかにシュタイナーは「たしかに魂の器官のなかで働いている法則はとても強固なものなので、エゴイスティックな感情の影響を受けたからといって、大きな障害が生み出されることはありません」とも述べているが、今私たちの目の前で展開されている状況は、シュタイナーの楽観をもはや超えているのではないだろうか。もちろんなにごとも「大きな障害」ではないと言うことはあり得ようが。

 

「魂の器官のなかで働いている法則」とは、霊/精神の法則であり、自我の法則である。これらの法則に反することを私のエゴが為そうとするが故に、結局、私のエゴは敗北するのである。そして、エゴの敗北によって、魂は先に進むことができる。霊/精神に近づくことができるのである。

この視点に立つことができるならば、「エゴイスティックな感情の影響を受けたからといって、大きな障害が生み出されること」はないと言うことができる。

 

エゴはいつでも勝者のない戦いを闘う。他者を損ない、自らも損なわれる。勝ち目のない戦いだ。

 

自然の中には、高次の霊的ヒエラルキアたちのネットワークと力学が働いている。

人は自然の中にたたずみ、イントゥイションを成し、そこから霊的生命を得る。

また、霊的内容を含んだ書物から、インスピラツィオーンのきっかけを得る。

つまり、自然や霊的な教えは、人間が自らの魂において、純粋思考を成すように促すのだ。

 

いずれにしても、「霊的な認識の頂点に至る道はたくさんありますが、私たちはかならず正しい道を選ぶようにしなくてはなりません。」とシュタイナーが語るように、私たちは生活と魂のための、いわば見取り図をもたねばならないのである。

往々にして私たちは、自らのエゴイズム故に、間違った道を選んでしまうから。