自我は意志/思考であり、・・・カスパー・ハウザー伝説 1 | 大分アントロポゾフィー研究会

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自我の本質は思考である。

ただの思考ではない。それは意志でもある。意志的な思考なのだ。

自我であるが故に意志であり、その自我が考える/思考する。

そのように自我が思考しているが故に、私たちは自らを「わたし/Ich」とみなすことができるのである。

このように自我-アストラル体-エーテル体-肉体/物質体が調和的につながり、「我思う、故に我在り」という直観/イントゥイションが成立する。このイントゥイションこそ、意識の本質である。

 

さてここに、自らの自我、アストラル体、エーテル体、肉体がいまだ調和的な結びつきをもち得ていない人物がいる。

そして、彼の傍らに、アーリマンに憑依された別の人物がいる。

 

最初の人物の肉体とエーテル体とは一定の成熟を遂げているが、アストラル体は未成熟で、自我がその中に生きるには至っていない。要するに彼はまだ子どもなのだ。

アーリマンに憑依された二番目の人物は、その子どもの親である。

子どものアストラル体は未成熟で、自我も夢見の状態にあるから、その子は親の支配下にある。何でも言いなりである。できなかったら叱責され、罰を受ける。そして挙句の果てには、放置され、疎外される。

この親はアーリマンに憑依されているので、そのアルゴリズムにしたがって、ある意味、無自覚に無意識のうちに、子どもにそのように否定的に接し、あらゆる意味において子どもを疎外する。

 

その子どものアストラル体の成熟は阻まれ、未熟なままにとどまる。未熟であり、その形は歪(いびつ)である。そのようなアストラル体の中に自我が入っていくのは極めて難しい。

自我のないところに、思考は働きようがない。そのようなアストラル空間においては、意志的思考は機能しない。

 

“・・・アストラル体は、私たちが低次の情熱と呼んでいるものを - 部分的には、高次の情熱も含めて - すべて担っています。つまりアストラル体は、人間が感じる快感や悲しみ、喜びや痛み、欲望や衝動などを、すべて担っています。またアストラル体は、日常的な思考や意志の衝動も担っています。・・・私たちはアストラル体を、動物界全体と共有しています。人間の心情の動きは、すべてアストラル体の中に映し出されます。アストラル体には、なぜ「アストラル Astral」という名称が与えられているのでしょうか。物質体が、その物質的な素材をとおして、地球という物体全体と結びついているように、アストラル体は、地球を取り巻く星の世界全体とつながりをもっています。だからこそ、人間のアストラル体と地球全体を取り巻く星の世界(アストラル界)のあいだに神秘的なつながりが存在することを知った人びとは、アストラル体に浸透し、人間の運命と性格を作り出す力のすべてを、「アストラル」と呼んだのです。・・・

さらに、アストラル体に続く第四の構成要素をもつことで、人間は被造物の頂点に立つことになりました。この第四の構成要素は、その力という側面からとらえてみると、自分自身に向かって「私 Ich」という能力を人間に与えるものを、つまりそれぞれの人間が自分自身に対してだけいうことができるものを、担っています。この第四の構成要素は、人間の魂の中における、神的な原初の火花の現れです。・・・

・・・人間は自分自身の自我を、ほかの人間や、人間以外の存在と共有することはできません。だからこそ、人間は自我を備えることで、あらゆる被造物の頂点に立つことになったのです。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』松浦賢訳 イザラ書房 p. 14~17)

 

“・・・〇歳から七歳までの七年間に、物質体と結びついた外面的な感覚が解放されるようになり、七歳から十四歳までの七年間に、エーテル体と結びついた習慣や記憶力や気質などが確立されます。そして十四歳から二十歳か二十一歳の頃までに、アストラル体と関わる批判的な悟性が確立され、子どもは周囲の世界との関係において一人立ちできるようになります。”(ルドルフ・シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』松浦賢訳 イザラ書房 p. 20,21)

 

“子どもが性的な成熟を迎えると、それまでアストラル体を包んでいた覆いが脱ぎ捨てられます。そしておとなに近い感情が芽生えるとともに、個人的な判断能力が現れます。・・・ただし、この段階をようやく過ぎたばかりの頃には、子どもはまだ自分自身の判断を下すことはできません。まして、それ以前の時期に、子どもが自分で判断を下すのは不可能です。この時期の若者が一人前の判断を下し、たとえごく小さい範囲であっても文化に影響を及ぼそうとするのは、よくないことです。母胎のなかにいる胎児が見たり、聞いたりすることができないのと同じように、二十歳前後の、まだアストラル体が十分に成長しきっていない若者が、健全な判断を下すことは不可能です。それぞれの成長期の子どもには、それにふさわしい働きかけをする必要があります。すなわち最初の時期(〇歳から七歳まで)には、「模範と模倣」が、第二の時期(七歳から十四歳まで)には、「権威と権威者を見習うこと」が、第三の時期(十四歳から二十一歳まで)には、「子どもに原則を与えること」が、それぞれ必要になります。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』松浦賢訳 イザラ書房 p. 34,35)

 

“・・・そしてもっとも重要なのは、「子どものなかの学ぶ意欲と自由の衝動を正しい方向に導くために、誰が先生となって、それぞれの時期の子どもの前に立つのか」という点です。

・・・私たちは、純粋な思考と感情で、子どもを包み込まなくてはなりません。私たちは、心のもっとも奥深い部分まで、純粋さを保持していなくてはなりません。子どものまわりで、不純な思考を抱くことは許されません。子どもに話しかけても、言葉は感覚的な能力までしか作用を及ぼしませんが、感情と思考ならば、子どものエーテル体とアストラル体を母体のように保護する覆いに、植えつけることができます。エーテル体とアストラル体に植えつけられた感情と思考は、子どものなかにしみこんでいきます。子どもがエーテル的な覆いやアストラル的覆いに包まれているあいだは、私たちは、この覆いを育てなくてはなりません。不純な思考や情熱をエーテル体やアストラル体の覆いに詰め込むと、非常に多くのものがそこなわれます。それは、胎児期に、物質的な覆いである母体に有害なものをもたらすのと同じことを意味します。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『霊学の観点からの子どもの教育』松浦賢訳 イザラ書房 p. 35~37)

 

『霊学の観点からの子どもの教育』は、いわゆるシュタイナー教育の原点とも言える講演/著作である。

最後の引用部分でシュタイナーは、「もっとも重要なのは、『子どものなかの学ぶ意欲と自由の衝動を正しい方向に導くために、誰が先生となって、それぞれの時期の子どもの前に立つのか』という点です。」と語っている。

「学ぶ意欲と自由の衝動を正しい方向に導く」とはどういうことか、これを現実に即して具体的にイメージできるか否かにすべてがかかっていると言っても過言ではない。

 

アストラル体をあるべき姿に成長させる。

そのためには、物質体とエーテル体とに順を追って正しく働きかけることができていなければならない。なぜなら、物質体とエーテル体とが、アストラル体の基盤になるからである。

アストラル体のあるべき姿とは、そこに自我が入り込んで純粋思考を成す受け皿/器となることだ。

言葉を換えれば、魂が霊/精神に仕えるのである。霊/精神とは自我に他ならない。

 

アーリマンはこれを徹底的に妨害しようとする。

彼はエーテル体をきわめて無機的なものに引き下ろそうとする。機械であり死である。エーテル体から生命が奪われ、思考/記憶が無機的なものとなる。

人間は日々の生活の営みを虚しいものと感じるようになり、いわゆる家事も含めて労働を忌避するようになる。

そのようにして、まさしく実人生から退却してゆくわけだが、その自覚はない。むしろ、そのようにして抽象的に、かつ簡単になり、そして安楽になったようにさえ感じられる日々の生活に満足感をもつ。そして、そのような生活の抽象化の度合いを高めて、さらなる安楽さ/気楽さを得ようとして、アーリマンのミームへの依存がいや増し深まってゆく。