意識魂における純粋思考は、アガペー/エロス空間をもたらす。
それに対して、アーリマン/ルシファー由来のミームは、その場限りのセンティメンタリズムしか生まない。ありきたりで使い古されており、常に自分本位の情念めいたものに満ちている。センティメンタリズムの空間の中では、他者は常に「それ/Es」にとどまり続けて、「あなた/Du」には成らない。それは、あなたが自らを「わたし/Ich」と確認できずにいるからであり、自らをペルソナ/仮面/役割としか感じられないことによる。あなたはペルソナ/仮面/役割として「それ/Es」であり、それと連動して、他者もまた「それ/Es」でしかない。
いわば、あなたも他の誰か/他者も、つまらない芝居の演技者、もっといえば悲しく滑稽な道化者だ。出来事ではなく、芝居なのだ。
出来事には生きた人間が登場するが、芝居には命のない偽人間/アバターしか現れない。ミーム空間では、誰もが偽人間/アバターと化し、あろうことか偽人間/アバターになりきっている。偽人間/アバターこそ自分だと思い込んでいるのだ。
ミーム空間の特徴は、その鏡像性である。
例えば、自分が対峙している他者の振る舞いやその姿は、実のところその人のものではなく、私の反感に由来する諸々のイメージが、私からその人へと照射され、それがちょうど鏡のようにその人からはね返ってきているのである。
すべてのイメージついて、これが言える。これが、反感という魂の動きの特徴である。すべてがつながっているのだ。共感ではない。その逆。反射-鏡像-コピー。反感は、アーリマン/死に由来する。それは自らを無にして、虚無を反射する。そのネガティヴダンスに囚われて、それに執着したり、依存したりし始めると、あなたは闇の中に、その底なし沼にはまるのだ。
アーリマン/死から来る反感がもたらすイメージは、他者を害する性格をもつ。そのようなイメージで充満したミーム空間は、人が相互に敵対し、疎外し合い、搾取し合う死の影が支配する。このような魂の空間に居続けて、生き残れる者はいない。この空間は、悟性魂/心情魂の空間である。
人は死のイメージで充満したミーム空間である自らの悟性魂/心情魂の反生命性と霊的喜びの無さを取り繕うために、やはり同様に命の無い虚飾のミームの数々を物色する。堂々巡りの始まり、そしてその繰り返し。死の輪舞と言ってもいい。
いかにあなたが他者をそこなっているか、またそのようにしてあなた自身をそこなっているか、その死のダンスを見ればよい。
あなたがだれかを非難しているとき、だれかを支配しようとしているとき、また実際に支配しているとき。だれかにしてやられるんじゃないかと不安になるとき、・・・そうしたネガティヴなイメージが、あなたの魂を揺り動かしているとき、そうしたときにもうアーリマンとルシファーの死のダンスが始まっている。このような死のダンスの最中に、気休めや気晴らしを求めることに意味はない、というかそれはあまりにも能天気だとしか言えないわけだ。だって、あなたは無自覚にも死に瀕しているのだから。霊/精神は死なないにしても、魂は死ぬのである。
あなたがだれかの非を咎めるとき、あなたのその非難の質量とも90パーセントは、そのままあなた自身に帰ってくる。なぜならその人があなたに咎められるいわれなど実のところの無いと言ってもいいから。ミーム空間において、あなたはその人にはないものを見る。本当にないのか確かに誰にも分からない。確かめようがないのだから。そのように永遠に定かではないものを、あなたはその人の立ち居振る舞いや言動に見てしまう。そのような定かではない他者の非/悪が、実際のところ、それはあなたの魂に巣食ったミームから出てきていることを、まさしく観察できればいいのだ。あなたの魂の中の奇妙なゲームだ。あなたが観察すればいい。他のだれにもできないことだ。その果てしの無い一人相撲を観察すること。アーリマン/ルシファーの死の踊り。
やられたらやりかえす、やったらやりかえされる。これは果てしの無いリベンジ合戦である。これがミーム空間としてのこの地上の世界の特徴である。だが元をたどれば、すべて原因はあなたにある。あなたの勝手な思い込みが発端になっている。相手の問題ではなく、あなたの問題なのだ。静観するのが一番だ。もちろん静観できるような心境ではなくなっているわけだが。
あなたに大本の原因があるなどあなたは思いもしないから、100パーセント相手が悪いと100パーセント感じるわけだが、この変なかくれんぼのようなメカニズムこそがアーリマン/ルシファー由来のすべてのミームのアルゴリズムの特性なのだ。そのようにいわば設計されている。ミームに囚われている限り、この仕組みを見破ることはできない。
実のところ、この文脈こそが秘儀参入の出来事の一番の肝なのだ。
だからそういう意味において、この地上の世界を生き抜くこと、地道に生活することこそ、秘儀参入へと至るための最善の道、そして最大の試練だ。手抜きはしてはならない。近道をして楽しようとしたり、適当に済ませようとしたり、要するに逃げてはだめだ。気休めの息抜きや安直な癒しの類は無意味である。だからと言って、何も力む必要もない。
怪しいグルや厳しいグル、優しいグル、とにかくグルはいない。必要ない、どころかグルがいてはならない。そういった世界だから、要するに自分で自分を見つけ出すしかない。だからと言って、エゴイズムではない。
これが意識魂の世界だ。