いずれにしても、イントゥイションをめぐる考察は、原理的なものにならざるを得ない。
そして、その原理的な考察は理論にはなり得ず、その内に何らアルゴリズムめいたものを含むことはない。
1 意識魂におけるイントゥイションは涅槃/ニルヴァーナに至らない。
1-1 個は全体から分離した。分離した個は全体に戻ることへの憧れをもつ。再び全体に融合したならば、その個は個としての特性をすべて失う。その個は魂ではなくなる。
1-2 全体から個が分離し、複数の個が存在するようになる。いまや80億を超える個が、この地上の世界には存在している。
1-3 意識魂におけるイントゥイションに未達の個は、全体に対して反感をもつのみならず、それらの個同士が相互に反感をもち合う。
2 悟性魂/心情魂に浸潤し、そこに巣食ったミームから抜け出せない状態が続くと、遅かれ早かれ、死の影が近づいてくる。
2-1 あたかも外からのように、あたかも内からのように、反感と憎しみ、そして敵意に満ちたイメージが襲いかかってくるような気がしてくる。これが私たちの魂の日常である。
2-1-1 外なる他者、内なる他者、これこそ人生と社会の問題の核心である。
3 あなたは、自分を二つに分け、そのうちの好ましくない片割れを外に出した/外化した。
3-1 アーリマン/ルシファー由来のミームから見ると、観察対象は、親ミームと反ミームに分かれて見える。親ミームは好ましく、優れており、反ミームはネガティヴで悪、あなたの敵である。そうしたあなたの敵は、あなたの外にもあなたの内にもいる。
3-2 そしてあなたは、あなたの外なる他者を攻撃し、あなたの内なる他者を排除する。そのようにしてあなたは、あなたの内なるミームの城に閉じこもり、その城を守ることに懸命になる。
4 人はだれしも、この地上の世界に受肉した以上、自らの魂の内に、根源的な疎外感をかかえている。魂の故郷である霊たちの国から旅立ったが故である。故郷を失った者としての寄る辺なさ、寂しさ、悲しさ、そのような根源的な疎外感に苛まれている。
5 そうだ。それはいまだ感情とまでは呼べぬ何か。私たちが諸々の名前で呼び、それらを感情と思っているものの正体はすべて、私たちの悟性魂/心情魂に巣食ったミームが生み出したもの。それらすべてをまとめてセンチメンタリズムとでも呼べばいい。それはすべて演技であり、作為のにおいがする。自ら演技し、その気になって、自分と他人をだますのだ。演技であり、作為であることを、ミームの内にある私たちは気づかない。意図的に気づかないふりをしているのではなく。
5-1 気づかない私たちは、容赦なく他者を異物と決めつけ、悪であると断罪する。居心地が悪いことに違いはない。私たちは不幸であり、不幸は連鎖する。
5-2 多くの場合、私たちは金で幸せを買おうとあくせくする。金がない者は不幸なままだ。そのようにして私たちは、俗なる世界にい続ける。もちろん俗なる世界に癒しはない。
5-3 こうしたすべてがミームのアルゴリズムゆえなのだ。それはアーリマン/ルシファーに由来する。休まるところのない、安らぎなどあり得ない、終わりのないチキンレース。勝者のいないギャンブル。アーリマン/ルシファーが仕掛ける罠。
5-4 いずれにしても私たちは、このアーリマン/ルシファー由来のミームの世界を生きねばならない。この地上の世界に生まれてきた以上、自らの体(たい)を成長させ、魂を成熟させて、悟性魂/心情魂をもたねばならない。人間はこの地上の世界において、そのように成長する存在である。アーリマンとルシファーの魂への侵入を回避することはできないのである。そしてそこは、豊穣なる世界、差異に満ちた多様性の世界、徹頭徹尾(てっとうてつび)俗なる世界、悪の世界である。
6 悟性魂/心情魂が変容を遂げ進化し、意識魂へと至るためには、いわゆる出来事が成就しなければならない。これがポイントである。
6-1 霊的なるもの/聖なるもののイントゥイションこそが、出来事の本質である。つまり、霊的なるもの/聖なるものに巻き込まれること。ロゴスに意志的に関与すること。これは、聖霊降臨に等しく、純粋思考に等しい何事かである。
6-2 このようなイントゥイションからの眼差しが、悟性魂/心情魂に巣食ったミームの罠を見抜く契機となる。
7 意識魂へと至ることは、神々の要件であるとともに、すぐれて人間自身の要件である。つまり、ある意味それは自然の成り行きではなく、人間の主体的な関与なしには成し遂げられない事柄なのである。ちょうどすべての出来事が人間なしには生起し得ず、成就し得ないのと同様に。
8 さて、私の受胎/受肉の記憶は、穏やかで温かいオレンジ色に輝いている。そこにネガティヴな何ものもない。それは喜びと期待の色彩。
8-1 だが、いったい私は地上の世界に生まれて、何をしようというのだろう?
8-2 「あなた/Du」としての他者に再会することのできる場所。そのような他者にめぐり会って、その人を「あなた/Du」と呼べるようになることへの期待。
8-3 そうだ。この地上の世界は、他者と反目し合うところではない。全体から分離した個同士が対立し合うところではない。
9 全体から分離し、個として独立する。個としての自立性を獲得する。これは意識魂に至ることに他ならない。
9-1 全体から分離し、個となる。これが魂というものの基盤である。
9-1-1 感覚魂のレベルではまだ動物である。悟性魂/心情魂のレベルではアーリマン/ルシファー由来のミームの奴隷であり、人間はいまだ自律性/自立性をもち得ない。意識魂に至って初めて、人間は感情を統べ、意志的思考を成すことができるようになる。意志的思考とは、意識魂におけるイントゥイションであり、純粋思考であり、高次の自我から来る意志である。
9-2 全体から分離しているので、意識魂におけるイントゥイションにおいては、涅槃/ニルヴァーナはあり得ない。また、全体から分離したからこそ、意識魂は生起し得るのである。
10 全体から分離した個としての人間、意識魂にまで至る人間の魂、意識魂におけるイントゥイションと純粋思考、これらの契機が重層して、人類の出来事が生起する。
10ー1 意識魂としての個、そのような個としての人間は自らを「わたし/Ich」としてイントゥイションする。そのとき対峙する他者は「あなた/Du」としてイントゥイションされる。「わたし/Ich」と「あなた/Du」のイントゥイションが、人類の出来事の生起に関与する。それらはイントゥイションであるかぎりにおいて、純粋思考であり、思考体である。つまり、それらは霊/精神である。
10-2 だから、出来事とはすぐれて霊的な要件であり、秘蹟/奇跡に他ならないのである。「あなた/Du」を想定しなければ、何ごとも無意味である。
11 しかしそれは、危機でもある。穏やかにゆっくりと起こるとは限らない。
11-1 いずれにしてもそれは、カルマ的な要件であり、多くの場合、運命の糸は複雑に交錯している。
11-2 いつ、どこで、何が、どのように起こるかは、カルマ的に決められている。いつ、どこで、だれに出会うのかも、カルマ的に決められている。あなたがこの世に誕生するときにはすでに。
11-3 ただし、このポイントが大切なのだが、そのようにカルマ的に決められているからと言って、ストーリーの綾(あや)すべてが出そろっているわけではなく、決定的なのは、この地上の世界に誕生し生きぬく一回限りのあなたという存在が、このすべてのストーリーの要であるということだ。この驚くべき個体性というものの霊的本質。カルマが始めから終わりまですべてを支配するというより、常に新しいそれぞれの霊的個体こそが、新しいカルマを形成するということなのである。
11-4 しかもそれぞれの霊的個体が、単独でカルマを生み出すということではなく、複数の霊的個体が共同でカルマを生み出す。共同体のカルマのみならず、共同体と結びついた一つひとつの個体のカルマを生み出すことになるのである。