“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚を、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。”(「創世記」第1章)
神/神々/霊的なヒエラルキアは、彼自身にかたどって、人を造った。
人の姿が神の姿に似ているのは、そのためである。つまり、人は自らの姿から、神を想起することができるということである。
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り・・・」と神/神々/霊的ヒエラルキア自身が語っていることから、神を始めとした他の霊的ヒエラルキアもまた、同形つまり人間と同形であることがわかる。
つまり、人間に始まり、各霊的ヒエラルキアを経て、神に至る霊的存在たちは、相互に同じ形をした同系列の系譜だとみなすことができる。
そして、同じ文脈において、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」と記述されているから、男と女というここではいわば聖なる性が、神に備わっていることがわかる。男と女という聖なる性はロゴスとアニマとして展開する。また同時に、神が「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、・・・」と語るように、生命/生殖/成長が示唆されている。
すべて命あるものは、他の命あるものを食物として摂取しなければならない。「命あるものには、食物としてすべての青草を与える」と神自身が語るように、「青草」とは生命体/エーテル体の素(もと)となるいわゆるプラーナと同意の神秘文字の象徴である。生命そのものである。
さいごに、神が自ら造った人間に与えた祝福の言葉「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚を、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」について。
「生めよ」「ふえよ」「地に満ちよ」の三つと「地を従わせよ」は同じ流れの中にあるが、まず「生む」ことによって子孫ができ、その子孫がだんだん増えて地球上のあらゆる場所に住むようになる。そして地球上のあらゆるところに住み生活するようになった人類が、「地を従わせる」。だから、「地を従わせる」ことはもはや自然ではない。次元が違っているのだ。
神が霊的ヒエラルキアたちを自らの体とするように、人間は「地を従わせる」ことによって、いわば自然を自らの体と成す。自然との調和的な関係を作り出すことによって。
人間は神によるその誕生の時から、神から分かれ、自然からも切り離された。その人間が、自然との調和的な関係を作り出す。とりあえず神は、人にそう語った。神の祝福の言葉である。
人間は神から与えられた宇宙エーテル/プラーナによって、生殖し、誕生し、成長する。無数の人間がこの地上に生きるようになる。
それから、神が祝福したように、「地を従わせる」営みを始める。これは、究極的には、人間の魂が意識魂へと変容を遂げ、その意識魂の空間において純粋思考が働くことによって成し遂げられる。確かに神は、そのように望んだのである。
だが、そこに至るためには、アーリマンとルシファーの誘惑にさらされ、その試練を克服しなければならない。
人間の魂が感覚魂から悟性魂/心情魂へ、そして意識魂へと至る道行において、まさにこの試練が待ち受けている。
“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚を、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・”
人が意識魂へと至ったとき、その人は「神は自分のかたちに人を創造された」と「創世記」が語るように、そのような姿になる/変容する。そしてその人を霊視すれば、人間という存在の本当の姿を見て取ることができる。意識魂にまで至っていない人は、そのような高貴な姿で、霊視する人の前に立つことはできない。この違いは決定的である。
さて、このアーリマン/ルシファーによる誘惑/試練の本質はどこにあるのだろう。
なぜ人間は、そのような誘惑にさらされ、その試練を克服しなければならないのだろう。
それは、人間が他者と協調し、神の創造の業(わざ)を共に成し遂げることができるまでに成長を遂げなければならないからである。
他者と協調することができる存在へと成長するためにこそ、私たちは、アーリマン/ルシファーと対峙し、その誘惑にさらされ、運命的な試練の中にある。
他者との調和的な関係を構築するためには、倫理的に高潔でなければならない。簡明に言い換えれば、他者に対するリスペクトが不可欠なのだ。また最大限、エゴイズムから距離を置かねばならない。
倫理の法則はいわば、正十二面体のプリズムのように・・・。
つまり、アーリマン/ルシファーによる誘惑/試練は、倫理法則の訓練に他ならないのだ。まさにこれに勝る訓練があろうか。私たちは、悟性魂/心情魂のミーム空間にあって、またとない訓練を体験している。その機会に恵まれているのだ。
たしかに、この訓練は生死をかけた訓練ではある。だが、もちろん逃げられない。運命的な事柄だ。
たしかに、多くの人は死の不安と恐怖に駆られて、目を背けてしまう。だが、そこから逃げられないことを認めなければならない。(好き好んで回り道する必要はないのだ。)この場所は私たちが生きているその場所。生活しているこの場所。まさしくカルマ的で運命的な「今、ここ」だ。今以外の時はなく、ここ以外の場所もない。
この「今、ここ」から目を逸らして(そらして)はならない。
もしあなたが、まだ「今、ここ」を見ていないなら、それはあなたの魂に巣食ったアーリマン/ルシファー由来のミーム故だ。このミームの魔術と欺き、巧妙な罠の成り立ちに気づけばいい。この気づきが、・・・救済への唯一の入口だ。
大切なポイントがある。
この訓練に際しては、最大限の意識性を喚起し、そしてその意識性を持続させること。
自らの魂の空間に何が登場し、どのように振舞うか、冷静に見究めること。それらはミームのアルゴリズムが生み出した/呼び出した幻影だ。あなたはそれらの幻影に過敏に反応し、他者を害し、自らを害してきたのだ。
いずれにしても、注意を怠らず、寝ても覚めても、そのアストラル空間を観察し続けること。その実態がわかってくれば、対処の仕方が少しずつ見え始める。
あなたを悩ませ苦しめるトラブルはすべて、あなたの魂の空間、そう悟性魂/心情魂の空間に現れるのだ。そこはアーリマン/ルシファー由来のミームの空間だ。つまり、あなたの魂がアーリマンとルシファーに乗っ取られているわけだ。だからあなたは彼ら(アーリマン/ルシファー)を自らの魂の空間から追い出さなければならない。これは試練であり、いわば倫理的な訓練なのだ。彼らを追い出すことができるのは、あなただ。あなただけだ。なぜならその場所はあなた自身の魂に他ならないから。あなた以外の誰も、あなたの魂の中に入り込むことなどできない。
このことは間違いなく、かれからの要請である。あのひとからの要請である。
“・・・律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。”(「ヨハネによる福音書」第1章)
「めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきた」とキリスト・イエスの弟子であった福音書の記述者ヨハネが語るように、悟性魂を統べる「律法」ではなく、意識魂の目覚めとともに人間の魂に誕生する「めぐみとまこと」つまり恩寵(おんちょう)/至福(しふく)と純粋思考/真理とは、キリスト・イエスをとおして/媒介にして/生活の友とすることによってもたらされた/もたらされる。
これはどういうことかと言うと、アーリマン/ルシファーによる誘惑と試練を克服するためには、キリスト・イエスとの共同性が必要だということである。
福音書が記述しているように、弟子たちはキリスト・イエスと共同生活を営んでいた。日々(ひび)直(じか)に助言を受けることのできる状態にあった。これはまさしくとんでもない状況/例外的な状況であったと言わざる得ない。
だがそれでも、これはまったく当然のことだし、同時にすばらしいことであるとも言えるはずだが、彼ら弟子たちがキリスト・イエスと同等の/同レベルの魂の状態に至ることはない。
だから、この福音書の記述者であり、キリスト・イエスの弟子でもあったヨハネは、「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」と語っているのである。
つまり、弟子たちはあくまでも修行者であり、人類の教師であるキリスト・イエスの生徒である。修行と学習は進行中であり、弟子たちはその過程にあって、その最終目標までの道のりはまだ遠いというわけである。
意識魂にもその成熟の度合いの違いを見ることができる。成熟の途上にある意識魂は、まだアーリマン/ルシファーの誘惑に乗る危うさがある。その証拠に、弟子たちもいろいろな過ちを犯している。キリスト・イエスを裏切ったユダの例を見るまでもなく。
いずれにしても意識魂は、悟性魂/心情魂におけるアーリマン/ルシファーの誘惑/試練という倫理的な訓練を経ることなくしては生まれない。
誕生した意識魂には、その成熟度において千差万別の差異があり、成される思考のいわゆる純度においても違いがある。ミームにどれだけ依存しているか、囚われているか、またどのくらいその縛りから脱しているか。いずれにしても、魂は試練/訓練の中にあり続ける。
この試練/訓練に対してどれほどの意識性をもち、注意を向け続けることができるか。これが意識魂の本質である。