エッセー/随想としての『自由の哲学』 | 大分アントロポゾフィー研究会

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ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』の語り口は、カントの『純粋理性批判』のようではなく、むしろ清少納言の『枕草子』に似ている。

論文ではなく、随筆である。

論文は何らかの理論を記述する。理論はどうあがいても、何らかのミームのアルゴリズムの写しにしかなり得ない。直観的な性格をもつ純粋思考の律動と流れを、論文は汲み取ることができない。

融通無碍(ゆうずうむげ)な純粋思考を日常言語で記述することはむずかしいが、それでも日常言語以上にそれができるものを人類はもたないのである。

そのため、例えば聖書の記述者をはじめとした聖なる文献の書き手たちは、ロゴスに淵源をもつ日常言語の語彙を、神秘文字の象徴として用いた。

 

ミームのアルゴリズムと純粋思考の律動/流れの対比に、最大限の注意をはらわなければならない。

『自由の哲学』は純粋思考のあり様を観察/記述しようとしており、それは当然、論文のような語り口にはなり得ない。

理論ではなく、観察記録であり、純粋思考という事実/出来事を巡る独白のような対話、もしくは対話のような独白である。ちょうど、シュタイナーの数ある講演がそうであるように。

純粋思考を成す聞き手の意識魂が、対話の相手である。単なる独白ではなく、「あなた/Du」としての相手(聴き手、読み手)が常に意識されている。

 

ただ、『自由の哲学』においては、神秘文字の象徴ではなく、理念/概念が、ちょうどイマギナツィオーンにおける霊的イメージのように活用される。

理念/概念もまた、思考体であり、その性質において、霊的イメージと変わるところはない。

思考体としての霊的イメージがインスピラツィオーンの導火線であるのと同様に、『自由の哲学』においては、思考体としての理念/概念がインスピラツィオーンの火を点すのである。