ルドルフ・シュタイナーの“Wie erlangt man Erkenntinisse der höheren Welte?”(松浦賢訳では『いかにして高次の世界を認識するか』、高橋巖訳では『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』)は、大学時代(1980年代)に熊本市の本屋で、高橋訳を見つけて購入して以来、何度も読み返してきた。当時、高橋訳の『神智学 超感覚的世界の認識と人間の本質への導き』もほとんど同時に購入し、こちらもずっと読み直し続けている。
この二冊については、21世紀になってすぐ、松浦賢訳のものが出て、これらも購入し、愛読書になった。
これら二冊は、アントロポフィーの基本文献であるとともに、最重要文献であり、これらに『神秘学概論』のいわゆる宇宙論を足すと、アントロポゾフィーの屋台骨のようなものを知ることができる。
さらに言えば、これらの底流に『自由の哲学』によって提示された純粋思考の道があることを忘れてはならない。
これらアントロポゾフィーの著作を通じて明らかにされた理念/概念/思考体は、有機的に関連し合っており、それぞれの読書を含む、私たちそれぞれの思考の営みの中で、あたかも音楽作品のように共鳴しながら、さらに変容を遂げようとしている。
ただし、これらの基本文献が何を言わんとしているのか、それを独力で読み解くことは、至難の業である。
同時に、自らの意志的な思考によって、まさに独力で読み解いていくことこそが、肝要(かんよう)なのだと、私にもようやくわかってきたのである。
通常、私たちは何らかの書物に書かれていることがわからない場合、そこで独力で読み解くことを諦める。本当は分からないのに、自分をだまして分かったような気になる。読むのをやめる。どこぞの誰かさんの書いた解説書の類を物色する。知人に「これ、どういうこと?どういう意味なの?」とすぐ尋ねる。そのようにして、自ら思考することを止めてしまう。
思考するのを止めると、魂の中に、種々のミームが巣食い始める。アーリマン/ルシファー由来の既存のアルゴリズムが、魂を支配するようになる。彼らは、「わたしの言うことを聞け。そうすれば、楽になるよ。」と誘惑しているのである。
それで、人は何となく分かったような気になる。とりあえず楽になって、その代わりにと彼らはつけ加える。「君の魂はいただくよ」と。
思えば私も、種々様々のミームの、魂への浸潤を許してきた。
シュタイナーの著作でさえ、自らの純粋思考によって理解することができないうちは、いわばシュタイナーミームになる。
たいていの場合、このようなシュタイナーミームが魂に巣食うと、人は自分が一端(いっぱし)のシュタイナーの権威になったような気がしてきて、エゴイストになってしまう。彼の魂の中ではたらいているのは、彼の純粋思考ではなく、彼の魂に巣食ったミームのアルゴリズムである。
だから、彼は主導権を取り戻さなければならない。
なぜなら、アルゴリズムに従っている限り、霊的な他者との出会いはなく、いかなる出来事も彼には起こらないからである。
人間にとって、霊的な他者と出会い、自らの意志的思考によって出来事の生起に関与していくことこそが、まさしく生きることの意味に他ならない。
シュタイナーは、ミーム(cf. リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』1976)という言葉を使わないが、私は諸々の都合のよさから、この言葉を使うことにしたのである。なおかつ、私のこの語の使用の仕方が、ドーキンスやスーザン・ブラックモアが言っていることと多少ずれなどがあっても、かまわないと思っている。なぜなら、シュタイナーもこの言葉を使っていないのだし、わたし自身の純粋思考が、ミームという語の使用によって、他者に分かりやすく伝わるようになりさえすれば、それで問題はないはずだから。
そもそも、ミームの正確な定義などあり得ないし、定義する必要もないのだ。
それでは、タイトルに挙げたシュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』の「あとがき(1918年)」を読んでいこう。
“この本で述べられている超感覚的な認識に到る道を歩むことによって、私たちは魂的な体験ができるようになります。このような魂的な体験に関して何よりも大切なのは、それを求めて努力する私たちが、錯覚したり、誤解したりしないようにすることです。
ここで考察しているような事柄に関しては、私たちは容易に錯覚に陥る可能性があります。真の霊学 Geisteswissenschafft で取り扱われている魂的な生活の領域とは迷信や幻視的な夢や霊媒術やそのほかの逸脱した霊的な探求と同類のものである、と考えるようになると、とくに深刻な錯覚が生じます。真の認識の努力からかけ離れた方法で超感覚的な世界への道を探求しようとして本来の道から逸脱してしまう人と、本書で示されている道を歩もうとする人を混同することによって、私たちはこのような誤解を抱くようになるのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 257)
真の霊学/Geisteswissenschafft とは、アントロポゾフィーのことであり、これは迷信や幻視的な夢や霊媒術などの逸脱した霊的な探求とは異なる、とシュタイナーは明言する。
ここで例示された逸脱した霊的な探求の類は、20世紀末に流行したトランスパーソナル心理学もその一角をなしていたニューエイジの運動に深い親和性をもつ。当時、種々雑多のニューカルトが雨後の筍(うごのたけのこ)のように出現して、中には多くの信者を集めたものもあった。
多くの芸術家たちが、マジックマッシュルームを求めて、山中に入ったり、自称求道家たちが、いわゆるドラッグを試したり、霊媒や占い師の追っかけをしたり、まあとにかくなりふりかまわぬご乱交におよぶさまがそれこそ世界中で観察された時代であった。浮かれていたと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが。
それからさかのぼることおよそ100年前のヨーロッパはと言えば、唯物論と合理主義とが焦眉を極めつつ、人類をいまだかつてない危機的状況に追い込んでいた。唯物論的思考からは、人を人と思わず、「もの」扱いするに至るニヒリズムの雰囲気が生み出される。パフォーマンス最優先の合理主義が、その傾向に油をさす。
そのような中で、忘れられたものこそ、霊/精神であった。
表現主義や精神分析といった運動は、その忘れられたものを再び呼び出そうとする強い衝動によって推進されていた。これらの運動に、現代のニューエイジの先駆けを見ることができる。
表現主義からは、気味の悪い得体の知れないものが現われ、精神分析は、人間は無意識によってコントロールされているという理論に収斂(しゅうれん)した。いずれも、人間の本来的主体性から退却したのである。人間は、要するに「それ/Es」の奴隷だということになってしまった。
さらに同時期、フェルディナン・ド・ソシュールとルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの影響下に、哲学の言語論的転回の潮流が勢いを増し、いわば唯名論が蒸し返されるという大流行が見られた。哲学におけるこの傾向は、その後、構造主義とポスト・モダニズムに引き継がれ、現代の思想界もその強い影響の下にある。
この言語論的転回の大きな理論的支柱となったのが、写像理論である。言語は現実を写しとっているはずだ、という憶測なのだが、だれがどう考えても、言語は現実そのものではないし、思考と言語とは別のものである。ところが写像理論は、言語分析によって思考の現実を把握できるとした。これはもはや思想的倒錯と呼ぶしかないが、思考の現実への自信を喪失した当時の思想界に大きな影響力を発揮することになったのである。
また当時、物理学の世界にも大きな変革が起こっていた。相対性理論と量子論である。どちらも鉱物界に特有の、あるいは鉱物界に由来する重力と三次元空間、そして時間の概念の思考に、大きな揺らぎをもたらした。しかし、いずれも霊的実在論の方向へと進むことはなく、現代の宇宙物理学は荒唐無稽の理論づくり/空理空論に終始するという袋小路にはまり込んでいる。
そのような時代に、シュタイナーだけが霊的実在論の本道を見出し、他ならぬ純粋思考の道として、アントロポゾフィーを敷衍(ふえん)し続けたのである。孤軍奮闘である。