意識魂における思考は、必ず何らかの観察対象をめぐる思考となる。
それらの観察対象は、鉱物界、植物界/エーテル界、動物界/アストラル界、人間界において、観察される。
物質界、魂界、霊界/精神界において、観察されるという言い方もできる。
それらの観察対象をもたない思考は、エーテル体において律動しているが、人間の魂はそれを意識しておらず、そのために通常、人間は無意識となり、眠りに落ちる。
エーテル体において律動する思考は、純粋思考である。
その純粋思考が何らかの観察対象をめぐってなされたとしても、それはやはり純粋思考であり得る。
ただし、それらの観察対象は多くの場合、悟性魂/心情魂に巣食った種々のミームが、そのアルゴリズムに組み込んでいるため、思考存在としての人間自身/自我がミームの縛りを脱する意志的思考を貫くことができなければ、思考はその純粋さを失うことになる。
意識魂における純粋思考が、種々のミームのアルゴリズムの桎梏から、それぞれの観察対象を解き放つことができるならば、その思考は純粋さを保ち、同時に明瞭な意識性をも獲得する。
通常(悟性魂/心情魂において)、諸々の対象は、ミームのアルゴリズムによって、相互に関係づけられている。
また、言語批判的に言えば、各観察対象の切り取り方/分節の仕方までもが、ミームのアルゴリズムによって決められている。
つまり、ものの見え方、それぞれのものの関係の仕方/その文法というものは、ミームという一種のフィクションによって、すでに定められているのである。
意識魂の使命は、このミームのフィクションの非現実性を見破り、私たちの内外(うちそと)に広がり展開する森羅万象の真実を、自らの純粋思考によって認識することである。
いずれにしても、意識魂における純粋思考は、観察対象無しには前に進まない。方向感覚を失ったも同然となる。
“通常の場合、「火の試練」を成し遂げたあとで、さらに神秘学の訓練を続けると、秘儀参入をしようとする人は、神秘学の修業と関わる文字の体系について教えを受けます。本当の神秘学の教えは、このような文字の体系をとおして明らかにされます。なぜなら事物のなかに実際に「隠されている」(隠秘学的 okkultな)ものは、日常的な言語でもちいられている言葉で直接語ることも、日常的な文字の体系を使って書き記すこともできないからです。秘儀参入者から教えを受けた人は、できる限り、神秘学の教えを日常的な言語に翻訳します。隠秘学的な文字の秘密は、霊的な知覚を獲得したときに、人間の魂に明かされます。というのも霊的な世界では、隠秘学的な文字がつねに、書かれた状態で存在しているからです。私たちは、人間によって生み出された文字の読み方を習得するときと同じようには、隠秘学的な文字について学ぶことはできません。秘儀参入を志す人は、まず最初に、実際に霊視力に基づく認識ができる段階をめざして高まっていきます。そしてこのような発達を遂げるあいだに、ある特定の力が魂の能力として育ってきます。秘儀参入を志す人は、この力をとおして、霊的な世界の出来事や存在者を文字の形のように読み解きたい、という衝動を感じます。場合によっては、秘儀参入しようとする人の魂が進歩し、発達を遂げるうちに、このような力と、それに結びついた「試練」の体験が、ひとりでに現れることもあります。しかし隠秘学的な文字を読み解くのに精通した、経験を積んだ神秘学の探究者の指示に従うほうが、秘儀参入しようとする人は、より確実に目標に到達することができます。神秘文字の象徴は、人間が好き勝手に作り出したものではありません。それは、世界のなかで作用している力に対応しています。私たちは、神秘文字の象徴をとおして事物の言語を学びます。秘儀参入しようとする人は、すぐに、「私が学ぶ象徴文字は、準備と啓示の段階で知覚することを学んだ、図形や色や音などに対応している」ということに気づきます。秘儀参入しようとする人には「これまでの準備と啓示の段階における知覚はすべて、単語を構成する文字をひとつひとつ拾い読みするようなものであった」ということが明らかにされます。その人は、初めて高次の世界において「読む」ことを始めます。それまで一つひとつばらばらの図形や音や色に過ぎなかったものが、すべて、大きなつながりの下に姿を現します。ようやくその人は、本当の意味において、確実に高次の世界を観察するようになるのです。これまでその人は、「私は自分が見ているものを本当に霊視しているのか」ということを確実に知ることはできませんでした。しかしいまでは、高次の知識の領域において、秘儀参入を志す人と秘儀参入者は一定の秩序に従って意思疎通をすることができるようになります。というのも、日常生活において秘儀参入者がそのほかの人間とどのような共同生活を営んでいるとしても、秘儀参入者は高次の知識に関しては直接的な姿で、すでに述べたような象徴言語をとおしてのみ、何かを伝えることができるからです。
このような言語をとおして、神秘学の学徒は、人生におけるふるまい方の規則についても知るようになります。学徒はそれまでまったく知らなかった、ある種の義務について学びます。このようなふるまい方の規則について学んだとき、学徒は、秘儀参入をはたした人にとってのみ意味をもつような行為を行います。学徒は、高次の世界をよりどころとして行動するようになります。学徒は暗示的な象徴文字のなかにのみ、自分をこのような行動へと駆り立てる指示を読み取るのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 80~82)
霊的なる森羅万象を、意識魂における純粋思考が観察するとき、諸々の観察対象が、神秘文字の象徴として姿を現すようになってくる。
例えば、聖書はそのような神秘文字の象徴に満ちあふれており、聖書の記述者たちは、それらの神秘文字の象徴を日常言語に「翻訳」しようと努めたのだ。
シュタイナーは、特にその著書『神秘学概論』において、彼自身の秘儀参入体験に基づく神秘文字の象徴を公にすることを始め、その後の数限りない講演録において、それら神秘文字の語彙を自在に活用している。
少なくとも私に関するかぎり、そのようにしてシュタイナーの創出したボキャブラリー無しに、自らの純粋思考の道を前へと進めることはできない(できなかった)だろうと、昨日確信するに至ったという次第である。
そうなのだ。
例えば、アーリマンやルシファーという名前無しには、意識魂における純粋思考は、そもそも不可能なのである。
だから、そのような「神秘学の修業と関わる文字の体系」無しの、そのような語彙無しの宗教的なアプローチは、極めて危いと言わざるを得ない。なぜなら、そのような文字体系無しに、純粋思考を成すことは、意識魂においてはまずできない相談だから。
純粋思考を顧みることなく、やみくもに力を求めると、それは必ずミームのアルゴリズムの罠にはまることになる。
彼は、アーリマン/ルシファーに魂を売ることになるのだ。
少なくとも、「アーリマン」「ルシファー」という神秘文字があれば、そのような霊的存在に注意を向けることができる。
『自由の哲学』においてシュタイナーは、そのような神秘文字の象徴は利用せず、理念と概念を拠り所とすることによって、霊的存在としての人間の現実/理想を描いた/記述した。
理念/概念は思考体であり、思考体は霊/精神に由来するから、『神秘学概論』と『自由の哲学』の目標は同じである。
『神秘学概論』においては神秘文字の象徴を目印/道標にして、『自由の哲学』においては理念と概念を目印/道標にして、純粋思考が展開されるのである。
理念/概念、神秘文字の象徴は共に、人類レベルの記憶に由来する。
人間がその意識魂において、純粋思考を成すことができれば、その思考は人類の記憶と共振/共鳴し、理念/概念、神秘文字の象徴を理解し、霊的現実を認識するに至る。
つまり、霊的現実を認識することは、人類の記憶を想起することに他ならないのである。
このような記憶の想起について、例えば聖書は、ゴルゴタの出来事にまつわる諸々を描く中で、あからさまに記述している。聖霊降臨の出来事は、まさにそのピークである。
弟子たちは、キリスト・イエスとの「わたし/Ich」-「あなた/Du」の関係性の中で、いわばその共同生活の中で、霊の実在を体験し、祝福された。