最初に、ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』より、
”・・・現代という時代は超感覚的な認識を必要としています。なぜなら私たちが通常の形で世界と人生について経験するあらゆる事柄は、多くの疑問を私たちのなかに呼び起こしますが、このような疑問には超感覚的な真理によってのみ答えを出すことができるからです。私たちは次のような事実を正しくとらえなくてはなりません。すなわち現代の精神的な潮流の内部において、より深く感じる魂の持ち主にとっては、存在の基盤について学ぶことは世界と人生の大きな謎に対する答えではなく、むしろ問いかけになるのです。確かにしばらくのあいだは、私たちは「存在の謎に対する答えは、『厳密な学問的事実の成果』や、何人かの現代の思想家が考え出した結論のなかに含まれている」と考えるかもしれません。しかし人間の魂が、本当の意味で自分自身を理解するために足を踏み入れなくてはならない深みへとわけ入っていくときには、最初は答えであると思っていた事柄が、じつは真の問いかけをするためのうながしであることが明らかとなるのです。このような問いかけに対する答えは、人間の好奇心だけを満足させるようなものであってはなりません。人間の魂的な生活 Seelenleben が内面的に安らかで完結したものになるかどうかは、このような問いかけにどのような答えを出すかにかかっているのです。このような答えを努力して手に入れることによって、知への衝動が満たされるだけではなく、人間は仕事において有能になり、人生の課題に対処することができるようになります。もしこのような問題の答えが見出されないならば、人間は魂的な意味において(最終的には体的な意味においても)萎えてしまうことになります。超感覚的なものの認識は単なる理論的な欲求のためにではなく、本当に意味における人生の実践のために存在しています。現代の精神生活がこのような状態にあるからこそ、霊的な理解は私たちの時代にとって欠かすことのできない認識の領域となるのです。”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p. XVI,XVⅡ)
”・・・「確実な学問的な経験」に基づく多くの見解には強い説得力があるため、多くの人びとが、本書(『テオゾフィー 神智学』)のような書物に記述されている事柄は根拠のないばかげた説であると考えます。しかし実際には、超感覚的な認識について記述する人は、どのような幻想にも陥ることなく、このような事柄と向きあうことができるのです。
人びとは、このような事柄を記述する人に対して、「あなたが述べていることが真実だということがわかる『まったく異論をさしはさむ余地のない』証拠を挙げてほしい」と要求したがります。このような人びとは、自分が思い違いをしていることに気づいていません。なぜなら人々は、自分でも意識しないままに、事柄そのもののなかに含まれている証拠ではなく、自分が認めたいと願っている(あるいは自分で認めることができる)証拠を求めているからです。・・・私たちは、誤った理論には反論できない。なぜなら誤った理論は、誤った事柄が真実であるという確信に基づいているからである」というゲーテの言葉には深い真理が含まれていることを実感します。自分自身のものの考え方に含まれている証明以外は認めようとしない人が、どんなに議論しても、実りがもたらされることはありません。「証明」の本当の意味を知っている人は、人間の魂は議論とは別の方法によって真理を見出すことができる、ということをはっきりと認識しているのです。”(同上 p. XVⅡ,XVⅢ)
通常、私たちは、私たちの魂に浸潤し、寄生したアーリマン/ルシファー由来のミームに従って、(あたかも)思考する(ふりをする)が、実際は、ミームの文脈イメージのアルゴリズムをなぞるだけで、自ら思考することを放棄するという責任放棄のプロセスが進行するのである。
無自覚の思考停止。無自覚の責任放棄。無自覚の他者依存。無自覚の怠惰。・・・
”・・・霊的な世界について記述する際に、私たちがある事実や体験を表現するための簡潔な言葉や、適切ないいまわしを見つけることができるかどうかは、私たち自身の魂がたどる道によって影響を受けます。表現を意図的に見つけようとしてもうまくいかないのに、このような魂の道をたどるうちに、「正しい瞬間がやってくると」、適切な表現がおのずと生み出されるのです。・・・”(同上 p. X)
ここでシュタイナーは、ミームのアルゴリズムとは性質をまったく異にする純粋思考について、端的な特徴づけをしていると思う。
霊は、恣意的に見出せるようなものではなく、意図的にも見つからず、「正しい瞬間がやってくると」自ずと現れる。作為も無理強いもない。
アーリマンの無機的な二進法やルシファーの情念依存から、離れる。内的平静を保ち、焦りや苛立ち、そして怠惰から、遠ざかる。
これが「魂がたどる道」であり、本来の思考つまり純粋思考の道である。