あなたは、その豊かさと複雑さが、単なるカオスなのではなく、コスモスなのだ、とやがて気づくに違いない。
このような気づきこそ、純粋思考であり、もしあなたがそこから恣意的に何かミームめいたものをこしらえるなら、霊的生命は鳴りを潜めて、ありふれて干からびたものしか残らない。
だから、急いては(せいては)いけない。
日々の暮らしを、これまで通り成し、そして何ものかが現れ、何ごとかが起こるのを待つ。
恣意的に何か新奇なことをしようとしたり、作為的にものごとを都合よさげに操作しようとしたりしない。
あなたは、純粋思考を介して、全体的なるものを垣間見る。
あなたが、自らの純粋思考によって垣間見た全体的なるものは、その時にはまだ、自らの真の姿を完全には見せてはくれない。その真の名前を明かすこともない。
一度にすべてを知ることなど、人間にはできない。
だが、あなたはまたとない機会を得たのだ。あなたは、ここから始めることができる。
まず、気づきとしての純粋思考があれば、そこから自律的にその思考自身が展開/変容を遂げ、あなたの眼前に広がるコスモスの豊饒のように、いや増す有機的組織性が姿を現わす。
純粋思考の自律性。自律的に展開/変容する思考。生きた思考である。
ミームが、文脈イメージのアルゴリズムとして硬直しており、そこに何の自律的な展開/変容も有機性もないのとは、対照的である。
あなたの高次の自我は、寝ても覚めても、純粋思考を成す。
しかし、あなたはそれを自覚しない。
でも、あなたはふと気づく。この気づきが、あなたの思考の道の始まりだ。
あなたは、間もなく、この気づきを忘れる。
だがそれでも、あなたの高次の自我は、純粋思考を続けている。もちろん、あなたにその自覚はなく、日々の生活が続いてゆく。
やがて、あなたは何かを思い出す。あなたの高次の自我が成した純粋思考が、あなたの意識に蘇る(よみがえる)。
だから、急いてはいけない。
ミームに囚われると、純粋思考は始まらない。気づきは起こらない。霊的な砂漠が広がる。