思考の愉悦 | 大分アントロポゾフィー研究会

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思考の愉悦(ゆえつ)を知る者は、クンダリニーの野生に打ち克つ。

ミームの沼に沈む者は、クンダリニーに無自覚であるが故に、シヴァ/ルシファーの魔力に抗する術を知らない。

 

”脳の神経ネットワークは個別細胞の大集合体(アグロレメーション)と、入力(たとえば眼からの、あるいは別のネットワークからの)を受け取る一層の細胞と、出力(たとえば筋肉、発声、その他のネットワークへの)を供給するもう一層の細胞、およびそのあいだにある多数の層からなっている。各ニューロンはほかの多くのニューロンと接続しており、この接続の強さはそれぞれの歴史によって変わる。ある任意のネットワーク状態では、特定の種類の入力は特定の種類の出力をつくりだすが、この関係は固定されていない。このネットワークは、たとえば、特定の種類の入力をつねに対合させる(ペアリング)ことによって訓練でき、その経験が新しい入力に対する反応を変える。言い換えれば、それは記憶することができるのだ。

この種の記憶は、固定した記憶場所をもつデジタル・コンピューターの記憶とはどこも似ていないし、流し込んだものは何でも多かれ少なかれ忠実に複製してしまうテープレコーダーとも似ていない。脳では、あらゆる入力は過去にやってきたものの上に積み上げられる。複雑な経験をする生涯を通じて、私たちは一つ一つをブラックボックスのなかにたくわえ、必要なときにそれを取り出すというふうにはしていない-そうではなく、すべての経験は一つの複雑な脳のなかに入り、そこで見つけたものに強いあるいは弱い影響を与える。ある事柄は事実上何の影響も与えず、まったく記憶されることがない(私たちはそれ以外にしようがない)。あるものは、ちょっとした影響を与えることができ、短期記憶としてつかの間とどまることができるが、やがて失われる。しかしあるものは劇的な変化をもたらし、正確な出来事を容易に再現することができたり、詩をまるまるそらんじることができたり、あるいは特別な顔を決して忘れなかったりするようになる。

有効なミームは、高い忠実度の、長く持続する記憶をもたらすものとなるだろう。ミームは重要であるからとか役に立つがゆえにではなく、おぼえやすいがゆえに広範に拡がることに成功するのかもしれない。科学における誤った理論が単に理解しやすく既存の理論と容易に適合するという理由で普及し、悪書は書店に行ったときにタイトルが思い出しやすいという理由でたくさん売れるかもしれない。-ただし、もちろん、私たちはそうした偏向を克服する戦略をもちあわせている。ミーム学の重要な任務は、記憶の心理学をミーム淘汰の理解に統合することとなるだろう。”(スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私(上)』垂水雄二訳 草思社 p. 130,131)

 

いずれにしても、私たちは、眼前に展開する霊的/魂的な現象/出来事の体的基底を発見しようと、躍起になっている。

このとき、頼りになる唯一のものこそ、思考である。

そして、思考自体は、それ自身、霊的/魂的な現象/出来事であるから、その体的/物質的基底は何かということを追求したくなるかもしれない。

 

しかし、霊的/魂的な現象/出来事を、短絡的に脳の神経ネットワークに結びつける前に、それらの霊的/魂的な現象/出来事を、私自身がどのように体験しているのか、もう一度、じっくり観察してみる必要がある。自らの体験なのであるから、そのような直接的な観察は、むずかしくはないはずであり、このような観察なしに、思考についての考察を前進させることはできないだろう。

そして、直接的な観察から始まる思考は、その的確さにおいて、比類がないものとなる。

この思考を、現代心理学をはじめとする心の科学の文脈イメージに安易に結びつけようとすることは、この意識魂の時代においては、きわめて野暮なことである。

 

ここでは、最高の霊的思考である純粋思考と、今や生きた思考の影となり、硬化し干からびた悟性的思考とが対置されるのである。

純粋思考は、思考の愉悦/enthusiasm を生み出す。悟性的思考から出てくるのは、ありきたりのセンチメンタリズムである。多くの人は純粋思考に無自覚なため、このセンチメンタリズムに取り込まれる。

 

悟性的思考において、そのアルゴリズムと文脈イメージは、すでに設定済みであり、記述語彙とその文法も出来上がっているのに対して、純粋思考のためのそれは、いわばその都度準備され、常に新たに生み出されなければならない。そのような作業自体が、純粋思考の一部を成す。だから、純粋思考のそのような営みは、神がこの世界を創造したのに等しい創造的エネルギーを要する。そして、そのようなエネルギーは宇宙に遍満するプラーナに由来し、人体においては、クンダリニーがプラーナ由来である。

端的に言って、それはエーテル体に由来する。エーテル体は、人体に生命を宿らせ、人体を維持、成長させ、生殖をつかさどる。そればかりではなく、思考と記憶の担い手(あるいは乗り物)である。そして、この場合の思考とは、思考の根源的な形態としての純粋思考である。

 

アストラル体にその基底を有する意識が、純粋思考を結びつくことができれば、思考の愉悦/生きる力と喜びが、そこから湧いてくる。原理的に、聖霊降臨に等しい魂の状態が生み出される。この状態を、人類の星の時間と呼ぶことに、いささかの憚り(はばかり)もない。