ミームから現れるもの ~ ルシファー的幻像 | 大分アントロポゾフィー研究会

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意識魂の時代が始まったとはいえ、私たちの大半は未だに悟性魂/心情魂の内に生きている。

そして、その悟性魂/心情魂の中に、過去の亡霊のように、ミームが巣くっている。ミームは、あたかも寄生生物のように、私たちの中に生息し、私たちは自分とミームの区別ができない。ミームは私たちの中に居座り続け、私たちはその状態に無自覚で、ほとんど微睡みながら(まどろみながら)、自らの魂を堕落させる。

 

ミームが最終的に人間の魂の内に生み出せるものは、基本的に腐臭を発するセンチメンタリズムである。どこまで行っても古いもの、過去の何ものかの焼き直し、楽をして効果を狙う、人気取り、硬直した権威主義、etc. ・・・常に安易で安直である。本来の芸術の対極にあるもの。

 

ミームから来るこのようなセンチメンタリズム/sentimentalism と、純粋思考に由来する愉悦/enthusiasum の違いが分からないとすれば、それはその人が、センチメンタリズム/sentimentalism に囚われている証拠である。

 

このセンチメンタリズムの沼から、魔術的な輝きを帯びて、力強く姿を現わすものこそ、ルシファーの幻像/イリュージョンである。

ミームに囚われている人は、このルシファー・イリュージョンに簡単に誘惑され、魅了される。ミームの文脈イメージに従えば、そうなることは避けがたい。ほぼ完全に自動的に、なし崩し的に、それは起こる。そして、多くの人がほぼ同一のミームに囚われているので、大多数の人が、同じルシファー・イリュージョンを見出し、それに魅了され、酔いしれる。

 

人は、大方人間の形姿をしたこのルシファー的幻像に、自分の理想像を見て、日々の生活をとおして、それに近づこう/追いつこうとする。ここに、競争というミームの原形が見出される。

このようなルシファー的幻像は、ミームに由来するものであり、もともとは人間にとっては、他者である。なぜなら、ミームは外からやって来たものだから。外から人間の魂の内に入り込み、寄生生物のようにそこに巣食い、魂を乗っ取ったのだ。

しかし、それが魂の内に姿を現わすので、ことは少々ややこしくなってくる。

魂の内で、その人が理想とするもの(ルシファー的幻像)と、その人の自我(その幻像を見ている)とが、対峙する構図が生まれる。

 

意識は意識の外に出ることはできない。なぜならば、意識にとっては、意識できるものはどこまでも意識の内でしかない。意識できるということは、それはやはり意識の内だから。そもそも、「意識の内と外」などと、不用心に語ってよいものやら。

むしろ、意識の担い手は、アストラル体である、と端的に述べておく方が、とりあえず、そこで留めておく方がいいかもしれない。