~ 最高に根源的な物語りを最初に引用しておきたい。・・・
”主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。”(創世記 第2章)
もともと一つのものであった男と女は、お互いを他者とは見ず、二人の間に情欲の入り込む余地はなかった。つまり、”二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった”のである。
”主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。”(創世記 第3章)
蛇とはルシファーのことである。彼は、”主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い”存在である。人間よりも上位の霊的ヒエラルキアに在って、神の意志を知っている。もちろん、”善悪の知識の木”のことも熟知している。
「善悪の知識」について知る「最も賢い存在」こそ、彼、ルシファーに他ならないのだ。
ルシファーのことを「情欲/情念の神」と呼ぶことは適切である。
ルシファーに唆されたという形にはなっているが、いずれにしても、人間は情欲/情念/想像力/イメージの持つとてつもない魔力を知るに至った。そしてその魔力に翻弄されながら地上の世界を生きる存在になった、ということの次第、ついに、”二人の目は開け”たのである。
実に実に、私たち人間は、カインの末裔となった。