個体性について ~ ルシファー | 大分アントロポゾフィー研究会

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試みに、個体性について、理念的/概念的に語ってみよう。

 

全体に対して個体。

全体性に対して個体性。

人間は全体ではない。全体から分離した個体である。

全体が無限だとしたら、個体は有限である。限界があるということである。

 

人が他者を見るとき、人は自らの個体性を意識し、自らの限界を痛感する。

同時に、他者の存在があることによって、全体としての世界が豊かで多様で豊穣なものであり得ている、という紛れもない現実を実感する。

 

他者にとってわたしは他者であり、わたしも他者もともに全体の一部として個体である。

 

“・・・わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。・・・わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。”(「ヨハネによる福音書」第15章)

 

全体から分離し、個体となる。

個体となることによって、別の個体とも分かたれ、おのおの異なる有限性の中に生きるようになる。

異なる有限性とは、言葉を換えれば、個性となる。癖のある存在となる。彼にはあって私にはないものがある。わたしにはできて彼にはできないことがある。・・・そうした差異によって、世界は豊かになり、同時に危い場所にもなる。

 

“このことを理解するためには、まったく新しい概念を用いることができなければなりません。通常の概念で考えるなら、ルツィフェル的存在たちは後に取り残されたのであり、そうなったのは彼らの怠慢だ、ということになりますが、しかしルツィフェル的存在は怠慢だったのではなく、犠牲行為を通して、地上の存在に働きかけることのできる存在になってくれたのです。前回の話からもわかるように、ルツィフェル的存在たちは、以前の遊星状態においてのみ正しかった法則を、地球の進化期に持ち込み、さまざまな進化段階を交錯させ、古い状態と新しい状態とを混在させることによって、生命の多様性を可能にしたのです。”(ルドルフ・シュタイナー『カルマの開示』高橋巖訳 春秋社 p. 40)

 

生命の多様性の場所、差異の場所、個性の場所は、同時に人間においては、情念の渦巻く場所ともなる。カインの末裔としての人間の本性が露わになる場所である。

この場所は、人間の魂であり、その魂は悟性魂/心情魂である。

動物たちは、そのような差異とそれぞれの種による特殊性を媒介にして、自然淘汰と弱肉強食のドラマを繰り広げる。

人間の魂においては、多種多様なミームがアメーバのように増殖し、ネガティヴな情念のトルネイドが渦を巻く。

嫉妬、情欲、優越感、劣等感、蔑み、鬱屈、・・・その他、名前をもたずとも私たちを情念の地獄へと突き落とす感情的な諸々。

つまり、私たちが日々の生活の中で、これらは味わい尽くしているものだ。私たちはこうしたアーリマン/ルシファー由来の有象無象と格闘しながら、日常生活を営んでいる。そしてある意味、この格闘は私たちが先へ進むために不可欠なのだ。