クンダリニーについて考える(3) | 大分アントロポゾフィー研究会

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クンダリニーをとりあえず霊的生命として特徴づけておこう。

霊的生命は、霊人に宿り、流れる。

肉体/物質体が霊化されると、霊人と成る。

まだ霊化/浄化されず、霊人と成るに至らない肉体/物質体に、霊的生命としてのクンダリニーは流れることができない。

 

さて、もし未だ霊人と成るに至っていない肉体/物質体に、無理にクンダリニーが宿ろうとしたら、霊化されざる肉体/物質体の中を、クンダリニーが流れようとしたら、どうなるのか。

そのとき、不浄の肉体/物質体は、クンダリニーの強烈なエネルギー/火/炎によって、焼かれるにちがいない。

霊的なエネルギー/火/炎が、肉体/物質体を焼くとどういうことが起こるのか。

 

ともあれ、不浄とは言っても、私たちの肉体/物質体には、神々/霊たちのいわば純粋思考が働いている。

つまり、私たち自身の高次の自我が関与しない状態で既に、私たちの肉体/物質体は、高次のヒエラルキア存在たちによって他力的に、霊的有機体として存在しているということなのである。

だが、この霊的有機体は、私たちのコントロールの外に在る。私たちの意識もその内部には及ばない。私たちは、自らの肉体/物質体の現実を知らないままの状態にとどまっているのだ。

 

私たちが、純粋思考によって、霊/精神としての自らの魂を知るようになることで、純粋思考を成す私たちの意識魂は、霊我へと成長を遂げる。

霊我は、純粋思考を成すことによって、霊的生命としてのクンダリニーの実相を徐々に知り始める。さらに、高次のヒエラルキアによって霊的有機体として存在している自らの肉体/物質体の実相についても、徐々に認識してゆくことになる。

 

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さて、ここで、考察の恣意性をできる限り小さく抑えるために、ルドルフ・シュタイナーの『テオゾフィー 神智学』の「人間の本質」の章を読み直したいと思う。

以下、それぞれの引用文の冒頭に、ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』(松浦賢訳 柏書房)のページ番号を記す。

 

14,15 ・・・人間はその本質において三つの側面を備えている・・・。このことをとりあえず体(たい)Leib・魂 Seele・霊 Geist という三つの言葉でいい表すことにしましょう。・・・ここでは体という言葉は、・・・周囲の世界の事物が人間の前に姿を現すための媒体となるものを意味しています。魂という言葉は、人間が事物を自分自身の存在と結びつけるための媒体となるもの、つまり人間が事物に関して好き嫌い・快感と不快感・喜びと苦痛などを感じ取るための媒体となるもの、を示します。そして霊という言葉は、ゲーテのいいまわしを借りるならば、事物を「いわば神のような存在として」観察するときに人間のなかで明らかにされるもの、を表現しています。

以上のような意味において、人間は体と魂と霊から成り立っているということができます。

・・・これらの三つの側面は、人間が三とおりの異なった方法で、自分以外の世界と類縁関係にあることを示しているのです。

 

17 ・・・人間は鉱物と同じように、自分自身の体を自然の物質をもとに作り上げます。人間は植物と同じように成長し、生殖活動を営みます。人間は動物と同じように周囲の事物を知覚し、これらの事物の印象をもとに自分自身のなかに内面的な体験を作り上げます。ですから私たちはここで、人間には鉱物的・植物的・動物的存在が認められる、と考えることができます。

 

18 私たちは人間の体には、存在の三つの形態、つまり鉱物的・植物的・動物的形態だけではなく、さらに第四の特別な人間的な形態が含まれていることを認めなくてはなりません。・・・人間は、人間の体の存在形態をとおして、体に関して、すでに独自の領域を作り上げているのです。

 

*私見・・・ここで、シュタイナーが、人間の体に関連して、「第四の特別な人間的な形態」「独自の領域」と語っているものが、思考と認識のための人間独自の体の形態であることは、明らかである。シュタイナーは、このことに関連して、カール・グスタフ・カルス(1789~1869)の『自然と精神の認識のオルガノン』から、次の文章を引用している。-「・・・力強く、美しく形成された人間全体の(とくに脳の)構造は、たとえそれだけで天才的な力を生み出すことはできないとしても、少なくとも高次の認識を行うのに必要な、欠かすことのできない第一の条件を提供しているのです」(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p. 18)

つまり、人間の体は霊を志向している、ということである。人間は、思考することによって、霊の認識へと至る。

 

20 ・・・体的なものは魂的なものの基盤になる・・・。

 

21,22 ・・・人間の魂は、二つの必然性と向きあうことになります。まず第一に人間の魂は体的な法則によって、自然の必然性の影響を受けます。第二に人間の魂は、みずからの自由意志に基づいて思考の法則の必然性を認めるとき、正しい思考につながる法則の影響を受けます。人間は自然によって新陳代謝の法則に従わされます。そして人間は、みずからすすんで思考の法則に従います。

思考の法則に従うことによって人間は、体をとおして属している秩序よりも、さらに高次の秩序に属することになります。このような高次の秩序こそ、霊的な秩序にほかなりません。・・・体的なものが魂的なものの基盤であるのと同じように、魂的なものは霊的なものの基盤となります。

・・・思考をもとにして人間の本質について解明しようとする人には、自分自身を意識することによって体と魂と霊の違いをはっきりと認識することが求められるのです。

 

22 人間は、その本質における思考の重要性について理解するときにのみ、正しい方法で自己を認識することができます。脳は、人間が思考するための体的な道具です。・・・正しく形成された脳は思考を生み出すという目的のために人間に仕えます。人間の体全体は、人間が脳という霊的な器官のなかに自分自身の頂点を見出すように形成されています。・・・脳の使命とは、思考する霊のための体的な基盤になることです。

 

23 ・・・最高の感情は「おのずと」生じるのではなく、エネルギッシュな思考の活動をとおして獲得されるのです。

 

23 人間の体は思考するのに適した構造をしています。人間の体のなかでは、鉱物界に存在しているのと同じ物質と力が組みあわされ、その鉱物的な構造をとおして思考が姿を現します。その使命に従って形成された、このような鉱物的な構造を、ここから先の考察においては人間の物質体 physischer Leib と呼ぶことにします。

人間の中心点である脳をめざして秩序立てられている、このような鉱物的な構造は生殖によって生じ、成長によってその形姿を作り上げます。

 

*私見・・・この地上の世界において、当面人間の思考は、鉱物界の三次元空間と、過去から未来へと流れるかに見える時間と、重力とに拘束される形で、成される。「人間の体のなかでは、鉱物界に存在しているのと同じ物質と力が組みあわされ、その鉱物的な構造をとおして思考が姿を現します」というシュタイナーの記述には、そんな意味合いがある。霊的に見た時には、鉱物界の三次元空間と、ミームが生み出す過去から未来へ流れる時間、そして鉱物界/アーリマン界に由来する重力は、すべて仮象/フィクションに等しいと言うことができるから、霊を志向する人間の思考は、やがてこの仮象/フィクションの外へと向かうことになる。「エネルギッシュな思考の活動」つまり意志的な思考/純粋思考が始まるのだ。

 

24,25 ・・・生物を作り上げている物質的な素材は、たえず入れ代わります。しかし種(しゅ)そのものは、生物の一つの個体がいきているあいだだけ持続するのではなく、さらに子孫へと伝えられていきます。まさに種が物質的な素材の組み合わせを決定しているのです。本書では、このような種を形成する力を生命力 Lebenskraft と呼ぶことにします。

 

25,26 人間は通常の感覚をもちいて、生命力の現れを知覚することはできません。・・・必要な器官が開かれると、人間は単なる個体ではなく、生命力をとおして生み出される植物や動物のさまざまな種そのものの姿を知覚するようになります。

このような器官が開かれることによって、まったく新しい世界が人間の前に姿を現します。人間は生物の色や匂いなどだけではなく、さらに生物そのものの生命を知覚します。人間はそれぞれの植物や動物のなかに、物質的な形姿だけではなく、さらに生命に満たされた霊的な形姿を知覚します。このような事柄を表現するために、この霊的な形姿をエーテル体 Ätherleib あるいは生命体 Lebensleib と呼ぶことにします。

 

26,27 ・・・霊的な生命を探求する人にとってエーテル体とは、物質体の素材と力が作用した結果、生み出されるものではなく、このような物質的な素材と力を生命へと呼び覚ます、自立した現実的な実体なのです。・・・生命体という実体は、生物が生存を続けるあいだは、崩壊しないように物質体を維持します。

私たちが生命体を見たり、別の存在の生命体を知覚したりするためには、目覚めた霊的な目が必要になります。・・・

・・・人間の物質体の使命がその構造のなかに反映されているのと同じように、人間のエーテル体の使命もその構造のなかに映し出されています。さらに私たちは、思考する霊に注意を向けることによって、人間のエーテル体について理解を深めることができます。人間のエーテル体は、思考する霊をめざして全体が秩序立てられているため、植物や動物のエーテル体とは異なったものになっています。

 

*私見・・・人間は、物質体をもたなければ、この地上の世界で生活/活動することはできない。しかし、生命がこの物質体に宿らなければ、物質体は形成されない。物質体に宿る生命は、生命体/エーテル体という実体である。人間が物質体を有するのは、この地上の世界を生きるためだが、人間は何の目的もなくこの地上の世界を生きるのではない。飛躍した言い方にはならないと思うが、人間は霊的に成長を遂げるために、受肉し、この地上を生きるのである。人類の星の時間のような幸運にめぐり会うことができれば、人は自らの霊的な使命に気づく。つまり、人間の物質体は、霊を志向しているのである。霊を志向する物質体を形成し、維持するという役割を持つエーテル体は、「思考する霊をめざして全体が秩序づけられている」のである。

 

27 人間が物質体をとおして鉱物の世界に属しているのと同じように、人間はエーテル体をとおして生命の世界に属しています。人間が死ぬと、物質体は鉱物の世界のなかに、エーテル体は生命の世界のなかに、それぞれ溶解していきます。本書では、ある存在に何らかの種類の「形姿 Gestalt」や「形態 Form」を与えるものを「体(たい)Leib」という言葉でいい表すことにします。・・・本書の文脈においては、「体」という表現は肉体だけではなく、魂的な、あるいは霊的な要素として形成されるものに対しても、使われることがあります。

 

*私見・・・「本書では、ある存在に何らかの種類の『形姿 Gestalt』や『形態 Form』を与えるものを『体(たい)Leib』という言葉でいい表す」という記述は、この上なく重要である。いずれにしても、体(たい)をもつことによって、霊(れい)は個(こ)となり、他者から分離し、他者と区別されるのである。

 

28~30 ・・・感覚を事実として生じさせる作用は、生命の形成力の作用とは本質的に異なっています。人間の内面的な体験は、生命の形成力の作用に感覚を生み出す作用が加わることによって呼び起こされるのです。・・・人間の感覚はあらゆる方向に向かって、受け取った印象に対する反応を返します。このような作用のみなもとを感覚魂 Empfindungsseele と呼ぶことにしましょう。・・・

・・・生命を知覚する器官をもちいてエーテル体を見ることができるのと同じように、人間はより高次の器官をとおして、感覚の内面的な世界を特別の種類の超感覚的な知覚としてとらえるのです。・・・当然のことながら、すべての人間は自分自身の感覚の世界の内部を観察することができます。しかし自分以外の存在者が感じ取っている感覚の世界を霊視することができるのは、開かれた「霊的な目」をもった霊視者 Seherだけです。・・・

 

30,31 感覚魂の活動は、エーテル体の影響を受けます。というのも感覚魂はエーテル体のなかから取り出したものを、感覚として輝かせるからです。そしてエーテル体とは物質体のなかの生命にほかならないので、感覚魂は物質体からも間接的に影響を受けることになります。・・・一方に物質体とエーテル体があり、他方に感覚魂があり、そのあいだにさらに人間の本質を構成する特別の要素が存在している・・・。この構成要素が魂体 Seelenleib あるいは感覚体 Empfindungsleib です。・・・エーテル体のある部分はそのほかの部分よりも繊細にできており、このようなエーテル体のより繊細な部分が感覚魂と一体化し、魂体になります。一方エーテル体の粗雑な部分は物質体と結びついています。そして感覚魂は魂体を越えてそびえ立っています。・・・

 

32 感覚魂は体以外にも、思考や霊とも作用しあっています。まず最初に、思考が感覚魂のために活動します。・・・人間は自分自身の衝動や本能や情熱に、やみくもに従うことはありません。人間はよく考えることによって、これらの衝動や本能や情熱をみたすことができるような機会を生み出します。いわゆる物質主義的な文化は、このような方向をめざして発達しています。物質主義的な文化の本質は、思考が感覚魂に仕える、という点にあります。・・・

人間は感覚魂をとおして、動物と類縁関係を築きます。私たちは動物にも、感覚や衝動や本能や情熱があることを認めます。ただし動物は、これらの感覚や衝動や本能や情熱に直接的に従っています。動物の感覚や衝動や本能や情熱は、それ自体で自立しており、直接的な体験を越えた思考と結びつくことはありません。・・・

 

33 ・・・本来の感覚魂は、思考を仕えさせる、発達した高次の魂の構成要素とは異なっています。思考を仕えさせるこのような魂のことを、悟性魂 Verstandesseele と呼ぶことにします。また私たちは悟性魂を、心情魂 Gemütsseele あるいは心情 Gemüt と呼ぶこともできます。

 

*私見・・・シュタイナーはここで、「悟性魂を心情魂あるいは心情と呼ぶこともできます」と述べているが、なぜ悟性魂が心情魂とも呼べるのか、説明していない。私たちは、この『テオゾフィー 神智学』に関するかぎり、自分で思考し、自分でその説明をすることが求められていると思う。いずれにしても、純粋思考しなければならないということである。私は、悟性魂を文脈イメージの集合体としてとらえている。ミームと呼ぶこともできる。地域差、時代による違いのあるいわゆる個々諸々の文化を構成する文脈イメージの集合体であり、私ではない他の誰かが過去のいずれの時か思考した、いわば古きものである。習慣や慣習のようなもので、時と場合に応じた振舞い方が決められている。そうした身振りや顔の表情、声の出し方、etc. すべて決められている、決まりきっている。そして、付随する感情も常に変わらない。つまり、ミームにおいては、イメージと感情とがセットになっており、もはや変化の余地はないのである。だから、悟性魂と心情魂はセットなのである。

ただし、私たち一人ひとりの拠って立つミームは、それぞれ多かれ少なかれ異なっているはずである。そして、あるミームに拠って立つ、例えば私は、別のミームに拠って立つあなたのことが、理解できない。逆も言える。あなたは、私のことを理解していない。そんな相互疎外の状況が、今の時代に、蔓延している。ミームの外に出なければ、新しい相互融和の状況を生み出すことはできないということは、明らかである。

 

33 人間は思考をとおして、自分自身と関わる生活の外に出ます。人間は思考することによって、自己の魂を超越するものを手に入れます。人間は、思考の法則は世界の秩序と一致している、ということを当然のことと考えます。思考の法則が世界の法則と一致しているからこそ、人間は自分自身を世界に属している住人と見なすのです。このような一致は、人間が自己の本質について認識する上で重要な意味をもっています。人間は自己の魂のなかに真理を探究します。そしてこのような真理をとおして、魂だけではなく、世界の事物が姿を現します。人間が思考をとおして真理として認識する事柄は、人間自身の魂だけではなく、世界の事物とも関わる自立した意味をもっています。・・・

 

35,36 ・・・永遠の霊は感覚魂のなかに光を投げかけます。消え去ることのない光が感覚魂のなかに姿を現します。魂がこの光のなかで生き続ける限り、魂は永遠なるものと関わります。魂は、みずからの存在を永遠なるものと結びつけます。魂が真理や善としてみずからのうちに担っているものは、魂のなかで死滅することはありません。

魂のなかで永遠性として光り輝くものを、ここでは意識魂 Bewußtseinsseele と呼ぶことにします。

・・・ここで意識魂という言葉が意味しているのは、人間の意識の核、つまり魂のなかの魂です。さらに意識魂は魂の特別の構成要素として、悟性魂と区別されます。悟性魂は、まだ感覚や衝動や情動などと結びついています。・・・感覚などの共感や反感から生じるあらゆるものから解き放たれた、(この)真理こそが、いつまでも変わることなく持続し続けるのです。・・・魂のなかでこのような真理が生きている部分を意識魂と呼ぶことにします。

 

36 ・・・体の性質は下から上に向かって、魂を制限するように作用し、霊の性質は上から下に向かって、魂を拡大するように作用します。というのも、魂がより多くの真理と善に満たされれば満たされるほど、魂のなかの永遠性はますます広大で、包括的なものになるからです。

 

39 ・・・自己意識を持つことによって、人間は自分自身のことを自立した存在、すなわち自分以外のすべてのものから一人立ちした存在である「私(自我)」と呼びます。人間は「自我」のなかで、体的・魂的な存在として体験するすべてのことを一つにまとめます。体と魂は「自我」の担い手です。自我は体と魂のなかで活動します。脳が物質体の中心であるように、「自我」は魂の中心です。・・・人間の本来の本質である「自我」は、私たちの目にはまったく見えません。だからこそジャン・パウルは「自我」の存在に気づくことを、「覆い隠されたもっとも神聖なもののなかだけで生じた出来事」と、的確な言葉で表現しているのです。というのも、自分自身の「自我」をもつことによって、人間はまったく一人になるからです。

この「自我」は人間自身です。人間は「自我」をもつことによって、このような「自我」そのものを自分自身の真の本質とみなすことができるようになります。ですから人間は自己の体と魂を、そのなかで人間が生きるための「覆い Hüllen」と呼ぶこともできます。また人間はこのような覆いを、それをとおして人間が活動するための体的な条件、と呼ぶこともできます。成長するにつれて、人間は体と魂という道具をいっそう自分自身の「自我」のしもべとして使うことを学びます。・・・

 

40 ・・・人間が自分自身を「私」とよぶとき、体や魂という「覆い」が属する世界とは関わらない要素が人間のなかで語り始めます。このようにして「自我」は、ますます体と魂の支配者になっていきます。

 

40,41 自我は、永遠の光として人間のなかで輝く、光の放射を自分自身のなかに受け入れます。人間は体と魂の体験を「自我」のなかで一つにまとめ、真理と善に関する思考を「自我」のなかに流れ込ませます。一方において感覚的な現象が「自我」の前に出現し、他方において霊が自我の前に姿を現します。体と魂は、「自我」に身をゆだね、「自我」のために仕えます。そして「自我」は、霊に身をゆだね、霊によって満たされます。「自我」は体と魂のなかで生きます。そして霊は「自我」のなかに入り込み、そのなかで生きます。霊から自我へと入ってきて、自我のなかに存在しているものは永遠性です。・・・自我は、物質体のなかで生きているという点において鉱物的な法則に従います。また自我はエーテル体をとおして生殖と成長の法則に、感覚魂と悟性魂をとおして魂の世界の法則に従います。そして自我は、霊的なものを受け取るという点において霊の法則に従います。鉱物的な法則や生命の法則によって形成される存在は、生まれたり、消えたりします。しかし霊は発生や死滅と関わることはありません。

 

41,42 自我は魂のなかで生きています。確かに「自我」は最高の現れとして意識魂と密接に結びついていますが、その一方で「自我」は光を発しながら魂全体を満たし、魂をとおして体にも作用を及ぼします。霊は自我のなかで生活します。霊は自我のなかに光を放射します。自我が体と魂の内部で、体と魂を「覆い」として身にまとって生活しているのと同じように、霊は自我の内部で、自我を「覆い」として身にまとって生活します。・・・ここでは「自我」を形成し、「自我」として生活する霊のことを「霊我 Geistselbst」と呼ぶことにしましょう。なぜならこのような霊は、人間の「自我」あるいは「自己」となって姿を現すからです。「霊我」と「意識魂」の違いに関しては、以下のように説明することができます。意識魂は、「あらゆる反感や共感から独立し、それ自体をとおして存在している真理」をとらえます。一方、霊我はその内部にこれと同じ真理を担っていますが、この真理は「自我」のなかに受け入れられ、「自我」によって包み込まれます。真理は自我によってその人間個人のものとなり、その人間の自立した本質のなかに受け入れられます。永遠の真理がこのようにして自立し、「自我」とともに一つの実体へと結びつけられることによって、「自我」そのものは永遠性を受け取ります。

感覚的な知覚が自我の内部における物質的な世界の現れであり、霊我は自我の内部における霊的な世界の現れです。・・・人間は、真理であり善であるもののなかに霊的な世界の現れを認識します。物質的なものが姿を現すことを感覚 Empfindung 呼ぶのと同じ意味において、霊的なものが姿を現すことをイントゥイション Intuition(直観)と呼ぶことにしましょう。もっとも単純な思考でさえも、すでにイントゥイションを含んでいます。なぜなら私たちは、このような思考を手で触れたり、目で見たりすることはできないからです。私たちは思考の現れを、霊のなかから、自我をとおして受け取らなくてはなりません。

 

43 目がなければ色彩の感覚が存在しないのと同じように、霊我の高次の思考がなければイントゥイションは生じません。・・・

 

43,44 魂のなかで生きる人間の自我は、感覚をとおして物質的な世界の中から情報を集め、イントゥイションをとおして上から、つまり霊的な世界から知らせを受け取ります。人間の自我は、感覚をとおして物質的な世界を魂自身の生活にし、直観をとおして霊的な世界を魂自身の生活にします。魂は(より正確にいうと魂のなかで光り輝く自我は)物質的なものと霊的なものという、二つの方向に向かって門を開くのです。

・・・霊的な世界の霊的な素材と霊的な力によって霊的な体が形成されると、自我はこの霊的な体のなかで生活し、イントゥイションをとおして霊的な事柄を知覚するようになります。

物質的な世界において、個々の人間の体が周囲から切り離された存在として作り上げられるのと同じように、霊的な世界では、霊的な体が周囲から隔てられた存在として形成されます。物質的な世界だけではなく、霊的な世界においても、人間の内面と外面が存在します。人間は周囲の物質的な世界から素材を受け取り、物質体のなかで消化するだけではなく、さらに自分を取り巻く霊的な世界から霊的なものを受け取り、それを自分自身のものにします。霊的なものは人間の永遠の養分です。人間は、物質的な世界から生まれるのと同じように、霊のなかから真理と善の永遠の法則をとおして生まれます。人間は、自立した存在としてすべての物質的な世界から切り離されているだけではなく、自分の外に存在する霊的な世界からも隔てられています。このような自立した霊的な存在を「霊人 Geistesmensch」と呼ぶことにしましょう。

 

45 人間の物質体を調べてみると、私たちはそこに、物質体の外の物質的な世界に存在しているのと同じ素材や力を見出します。霊人に関しても同じことが言えます。霊人のなかでは、外の霊的な世界の要素が脈打ち、霊的な世界の力が作用しています。・・・霊人は霊的な皮膚によって霊的な世界全体から隔てられ、霊的な世界の内部において、みずからの内面で生活を営み、イントゥイションをとおして世界の霊的な内容を知覚する、自立した存在になります。

このような「霊的皮膚」を霊的な覆い Geisteshülle(オーラ的な覆い)と呼ぶことにしましょう。ここで私たちは、「このような『霊的な皮膚』は、人間が進歩するとともに拡大し続ける。したがって、霊的な意味における個人(人間のオーラ的な覆い)は限りなく大きく広がっていくことが可能である」という点をはっきりと理解しておく必要があります。

このような霊的な覆いの内部で、霊人は生活します。物質体が物質的な生命力によって作り上げられるように、霊人は霊的な生命力によって形成されます。ですから私たちは、先に物質的な人間のエーテル体について考察した場合と同じように、霊人のエーテル的な霊に目を向けなくてはなりません。このようなエーテル的な霊を生命霊 Lebensgeist と呼ぶことにします。

 

45~47 ・・・人間の霊的な本質は霊人・生命霊・霊我という三つの部分に分けられることになります。・・・「霊視者」は霊的な覆いの内部に、霊人の生命霊を「霊視します」。そして「霊視者」、このような「生命霊」が持続的に、外の霊的な世界から霊的な養分を受け取ることによって拡大していく様子を「霊視します」。そしてさらに「霊視者」は、このようにして霊的な栄養を受け取ることによって霊的な覆いが拡大し続け、霊人がますます大きくなっていく様子を目にします。・・・人間が摂取する霊的な栄養は、永遠の価値をもっています。したがって人間のオーラは、浸透しあう二つの部分から成り立っています。オーラのある部分において、人間の物質的な存在と結びついた色彩と形態が発生し、ほかの部分において、人間の霊的な存在と結びついた色彩と形態が発生します。

このようにして自我は人間を/、物質的な存在と霊的な存在という二つの部分に分けます。物質的な存在としての独自の方法でみずからを捧げて体を形成し、そのなかで魂が生活できるようにします。一方自我もみずからを捧げて、そのなかで霊が生活できるようにします。このことによって霊は魂のなかに浸透していき、霊的な世界のなかでめざすべき目標を魂に示します。体をとおして、魂は物質的なもののなかに組み込まれます。また霊人をとおして、魂には霊的な世界で活動するための翼が与えられます。

 

47,48 ・・・物質体は物質的な素材の世界のなかから形成され、その構造は思考存在としての自我をめざして秩序立てられます。生命力によって貫かれることによって、物質体はエーテル体あるいは生命体になります。このエーテル体は感覚器官をとおして外に向かって開かれ、魂体になります。この魂体のなかに感覚魂が浸透し、魂体と一体になります。感覚魂は外界の印象を感覚的な知覚として受け取るだけではありません。感覚魂は、一方においては感覚の作用を受け取り、他方においては思考の作用を受け取ります。このようにして感覚魂は悟性魂になります。悟性魂は、下方向の感覚に対して開かれているだけでなく、上方向のイントゥイションに対しても開かれているからこそ、思考の作用を受け取ることができるのです。直観に対して開かれることによって、悟性魂は意識魂になります。物質体が悟性魂のために感覚器官を形成するのと同じように、霊的な世界が悟性魂のなかに直観するための器官を形成することによって、悟性魂が意識魂になることが可能になります。感覚が魂体をとおして感覚的な知覚を生じさせるように、霊はイントゥイションのための器官をとおして悟性魂にイントゥイションをもたらすのです。物質体が魂体のなかで感覚魂と結びついているのと同じように、霊人は意識魂と一つに結びつきます。意識魂と霊我は一つの統一体を形成します。エーテル体が魂体のために「体(たい)」として生活する基盤を形成しているように、霊人はこのような意識魂と霊我の統一体のなかで生命霊として生活します。そして物質体が物質的な皮膚のなかで完結しているのと同じように、霊人は霊の覆いのなかで完結しています。・・・

 

49 「自我」は魂のなかで光を発し、霊のなかから入り込んでくるものを受け取ることによって霊人の担い手となります。・・・人間は、物質体とエーテル体と魂体をとおして物質的な世界に根をおろし、霊我と生命霊と霊人をとおして霊的な世界に向かって花を咲かせます。そして一方において根をおろし、他方において花を咲かせる幹に相当するのが魂です。

 

49~51 ・・・人間の「自我」は意識魂のなかで光を発し、さらに魂的な本質全体を貫きます。一般に、このような魂の本質を構成する諸部分は、体を構成する要素のように明確に分かれてはいません。魂の本質を構成する諸部分は、高次の意味において相互に浸透しあっています。悟性魂と意識魂を、緊密に結びついた自我の二つの覆いととらえて、自我をこの覆いに包まれた核と見なすならば、私たちは人間を「物質体・生命体・アストラル体・自我」に分けることができます。この場合、「アストラル体」という言葉は魂体と感覚魂を一つにあわせたものを表します。・・・本書では「アストラル体」という言葉を、「人間の本質において感覚的に知覚できるものを超越している要素」に関して、自由にもちいることにします。感覚魂はある意味において自我の力によっても貫かれていますが、感覚魂は魂体ときわめて緊密に結びついているため、感覚魂と魂体があわさって一体になっていると考えるならば、感覚魂と魂体の両方に対して「アストラル体」という一つの言葉をもちいることができるのです。自我が霊我によって貫かれるとき、人間のなかに霊我が姿を現し、アストラル体のなかの魂的なものが作り変えられます。アストラル体のなかでは、初めは、人間が感じ取る衝動や欲求や情熱が作用しています。さらにアストラル体のなかでは、感覚的な知覚も作用しています。感覚的な知覚は、外界と関わる人間の構成要素である魂体をとおして生じます。人間の内面が霊我に身をゆだねる前に、感覚魂が内面的な力によって貫かれると、衝動や欲求や情熱などが感覚魂の内部に生じます。その一方で「自我」が霊我によって貫かれると、魂はこの霊我をとおしてアストラル体のなかに力を送り込みます。その結果、人間の衝動や欲求や情熱は、自我が霊から受け取ったものによって照らし出されます。このとき自我は、霊的な世界に関与することによって、衝動や欲求などの領域を支配します。自我が衝動や欲求などを支配すればするほど、いっそう霊我はアストラル体のなかに姿を現すようになります。そしてこのことによって、アストラル体そのものが変化します。そのときアストラル体自体は、変化していない部分と変化した部分の、二つの部分から成り立つ存在となります。こうして私たちは、人間のなかに姿を現す過程に目を向けることによって、霊我を、変化したアストラル体と呼ぶことができます。また、人間が自我のなかに生命霊を受け入れるときにも、これと似たような事象が生じます。この場合には生命体が変化します。生命体は生命霊によって貫かれます。そして生命霊は、生命体が変化することによって、姿を現します。ですから私たちは、生命霊は変化した生命体である、ということができます。さらに自我は霊人を受け入れることによって、物質体のなかに浸透するための強い力を受け取ります。当然のことながら、私たちは、このようにして変化した物質体の一部分の、本来の霊的な姿を物質的な感覚をもちいて知覚することはできません。物質体の一部が霊化されると、その部分は実際に霊人に変化しています。ただし私たちは、それが表面上、物質的な形で姿を現すかぎりにおいてのみ、この霊化した部分を、感覚的に知覚することができます。物質体が霊化しているという意味において、当然私たちはそれを霊的な認識能力をとおして知覚しなくてはならないのですが、私たちが外界に感覚を向けるときには、霊的なものに貫かれた物質体は感覚的なレベルでその姿を現すのです。

 

51,52 ここまで述べてきたすべての事柄に基づいて、私たちは人間の構成要素を以下のように分類することができます。

 

 1 物質体

 2 生命体

 3 アストラル体

 4 自我または魂の核

 5 霊我または変化したアストラル体

 6 生命霊または変化した生命体

 7 霊人または変化した物質体

 

52 原註-・・・有機体のなかには、さらに無機的ではないものが存在しています。それこそが形成的に作用する生命にほかなりません。このような形成的に作用する生命の基盤になっているのは、エーテル体もしくは形成力体です。・・・霊の探究者は、「人間が無機的なものの内部に見出すものとは別の事象が有機体のなかで姿を現す」という観点に立って、エーテル体について語ります。