クンダリニーについて考える(2) | 大分アントロポゾフィー研究会

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トランスパーソナル心理学の草分けと呼ぶべきアメリカの哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームズは、その著書『宗教的経験の諸相』の中で、神秘主義に関連して、次のように記述している。

 

”これまでの講義で、私は幾度となく問題を提出しながら、その論究を神秘主義を主題とする時にゆずって、それらの問題に答えることなく、未解決のまま残してきた。諸君のうちには、私が何度も繰り延ばしているのに気がついて、微笑された方もあろうかと思う。しかしいよいよ神秘主義と真正面から取り組んで、いままで切れていた幾条もの糸をつなぎ合わせ、まとめて締めくくりをつけなければならない時になった。たしかに、個人的な宗教経験というものは意識の神秘的状態にその根と中心とをもっていると言える、と私は考える。・・・少なくとも私は、この問題となる状態が実在しているということを、そしてその状態の果たす役割がきわめて重要であることを、諸君に納得してもらうことができるのではないかと思う。

まず第一に、私はこう問わねばならない。「意識の神秘的状態」という表現は何を意味するのか? 私たちは神秘的状態をほかの状態からどう区別するのか? と。

 

・・・この語(「意識の神秘的状態」「神秘主義」)を有効に使えるようにするために、私は「宗教」という語の場合にやったのと同じように、この語にも制限を加えてただ次の四つの標識を提唱し、ある経験がこの四点をそなえていれば、本講の目的としては、それを神秘的と呼んで差し支えないことにしたいと思う。こうすれば、私たちは単なる言葉の上の議論や、そうした議論から一般に生ずる泥仕合を、避けることができよう。

 

1 言い表しようがないということ。-・・・この状態を経験した人は、すぐに、それは表現できない、その内容にふさわしい報告を言葉であらわすことはできないと言う。そうすると当然、その性質がどんなものであるかは直接に経験しなければわからないことになる。それは他人に伝えたり感応させたりできないということになる。この特性から見ると、神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に似ている。・・・

 

2 認識的性質。-神秘的な状態は、感情の状態にたいへんよく似ているけれども、それを経験した人々にとっては、また知識の状態でもあるように思われる。神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴なうのである。

 

これら二つの特徴があれば、どんな状態でも、私が用いるような意味では、神秘的と呼んでいいであろう。他の二つの性質はそれほど目立ちはしないが、しかし普通に見られるものである。それは次のものである。-

 

3 暫時性。-神秘的状態は長い時間続くことはできない。まれな例は別として、半時間、あるいはせいぜい一時間か二時間が限度であるらしく、それ以上になると、その状態は薄れて、日常の状態に帰してしまう。消えてしまえば、その状態の性質は、たいてい、不完全にしか記憶によびもどすことができない。しかしその状態が再び起これば、それと認められる。そして再発また再発と、絶えず発展してゆくことがあるが、その再発のたびごとに、内面的な豊かさと重大さとがますます強く感じられてくる。

 

4 受動性。-神秘的な状態の出現は、たとえば、注意を集中するとか、何らかの肉体的な動作をおこなうとか、その他、神秘主義の手引きなどに定めてあるいろいろな方法とか、そういう自発的な準備操作によって容易にすることができる。けれども、この特殊な性質の意識状態が一度あらわれると、その神秘家は、まるで自分自身の意志が働くことをやめてしまったかのように、ときにはまた、まるで自分が、ある高い力によって摑まれ、担われているかのように感じるのである。この後のほうの特性は、神秘的状態を、人格の一定の現象、たとえば預言を告げるとか、自動的に字を書くとか、霊媒とかのような、二重人格あるいは交替人格のある種の現象と結びつける。しかし、この後の方の状態は、どれほど著しい場合でも、その現象について何ら記憶を残さない。だからそれはその当人の平素の内的生活になんの意味ももたず、いわば単に内的生活の中絶にすぎないのである。ところが、厳密な意味での神秘的な状態は、けっして単に中絶的なものではない。その状態の内容の記憶がつねにいくらか残り、かつ、その状態の重要性の深い意味があとに残るのである。その状態は、再発から再発までの間の当人の内面生活を規定する。けれども、こういう現象の領域においてはっきりと区分を画することは困難であって、そこにはあらゆる種類の度合いと混合が見いだされる。・・・

 

神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。「そのことを私は年がら年中、耳にしてきたのに」と私たちは叫んで言う、「今の今ままでその十分な意味を実感したことがなかった」と。「仲間の一修道士が、」とルターは言った、「ある日のこと、使徒信条のなかの『われは罪の赦しを信ず』という言葉を復誦しているのを聞いたとき、私は聖書がまったく新しい光に照らされるのを見た、そしてたちまち私は自分が新しく生まれたように感じた。まるで楽園の戸がひろびろと開かれるのを見たようであった。」このようにふだんよりもいっそう深い意義が感じられるのは、筋道だった文章に限らない。たった一語でも、語句でも、海や陸の光の作用でも、芳香でも、楽の音でも、心の調子が正しく合っていさえすれば、すべてそれを感じさせるのである。・・・私たちは、この神秘的な感受性を保持しているか喪失しているかに応じて、芸術の永遠の内的啓示に対して生きているともいえるし、死んでいるともいえるのである。

 

神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前ここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。テニスンが書いているように、

「その上、なにかがある、あるいは、あるらしい、

それが神秘的な光で私に触れる、

忘れられた夢の閃きのように。-

「ここでと同じになにかが感じられ

どこだか知らないが、なにかがなされている、

けれどそれは言葉には言えない。」(1)

(1)The Two Voices. テニスンはB. P. Blood 氏へ宛てた書簡で次のように書いている。-

「私は麻酔薬によって啓示を受けたことは一度もありませんが、しかし一種の白昼夢-もっと適当な語がないので、こう言っておきます-を、私は幼いころから、自分ひとりでいるときに、しばしば見ました。それは私が自分の名前をひとりでひそかに繰り返して言っていると襲ってきましたが、すると突然、まるで個性意識の力がなくなってしまったかのように、個性そのものが溶け去って、果てしのない存在のなかへ消え去って行くのでした。そしてこれが決して混乱した状態ではなくて、実にはっきりした状態、この上なく確実な状態で、まったく言語を絶しているのです。-そこでは死もほとんど笑うべき不可能事でありました-人格の喪失(もしそうだったとしても)も、死滅ではなくて、唯一真実な生命であるように思えました。私は弱々しい描写しかできないのを恥ずかしく思います。ですから、その状態は言語を絶すると申したのです。」

ティンダル教授は、ある手紙のなかで、テニスンがこの状態についてこう述べたと伝えている。「全能の神かけて! あのことには妄想など全くまじっておりません! あれはぼんやりした恍惚境ではなくて、超越的な驚異の状態で、絶対に明白な心の状態と結びついたものなのです。」Memories of Alfred Tennyson, ii. 473. ・・・

 

神秘的な意識状態のはるかに極端なものを、J・A・シモンズが叙述している。自分自身の経験からこれに類似の状態を伝えうる人は、私たちが推測する以上に多いのではないかと思う。

 

「突然」とシモンズは書いている、「教会においてであろうと、仲間と一緒にいるときであろうと、仲間と一緒にいるときであろうと、あるいは、何か読んでいるときであろうと、とにかく、いつでも自分の筋肉が休んでいると思うときに、私はこの気分が接近するのを感じた。いやおうなくこの気分は私の心と意志を占領し、まるで永遠にと思われるほど長く続き、麻酔から覚めるときに似た、いろいろな感覚が、急激に交替しながらひとしきり続いてから消えて行った。私がこの種の夢幻の境を好まなかったのは、一つには、私がそれを自分自身に説明することができなかったからであった。私はいまでも、これを説明できるような言葉を見つけることができない。それは空間と時間と感覚と、それから私たちが好んで私たちの自己と呼んでいるものの性質をなしていると思われる経験の種々さまざまな因子とが、一つまた一つと、だんだんに、しかし速やかに消えてゆくことであった。こうして正常な意識の条件が引き去られてゆくのに比例して、下層にある意識、あるいは本質的な意識の感じが強度を加えてきた。最後には、純粋な、絶対的な、抽象的な自己のほかなにも残らなかった。宇宙は形もなくなり内容も空虚になってしまった。しかし自己は、恐ろしいほどいきいきと鋭く研ぎすまされて、現実に対して極度に激しい懐疑を感じながら、まるで泡がそのまわりで破れるように世界が破れ散るのも平気で、生きつづけた。そしてそれからどうしたか? 解体が来はしないかという不安、この状態が意識的自己の最後の状態なのだという冷厳な確信、私が存在の最後の糸を辿って深淵の辺まで至りついてしまい、永遠の虚妄(マーヤ)あるいは幻影の証明に達してしまったという感じ、それらが私をふたたび揺り動かした、あるいはうちゆすぶるように思われた。正常な意識状態への復帰は、私がまず触覚を回復し、次いで、だんだんと、しかし急速に、見なれた印象と日々の関心がふたたび目覚めてくることから始まった。ついに私は自分が人間であるということをもう一度感じた。そして生命とは何かという謎は解かれないままであったが、私はこうして深淵から引き返してきたことに、-あの畏ろしい懐疑の秘儀への参入からこうして解放されたことに、感謝したのであった。

「この夢幻境は、私が28歳になるまで繰り返し生じたが、その頻度はだんだん減っていった。それは単なる現象的な意識を満たしているすべての環境は幻影のような非実在であるという印象を、成長しつつある私という人間に植えつけるのに役だった。しばしば私は、そういう裸の、鋭い感覚的知覚を伴なった、形のない存在状態から目がさめたとき、不安な思いで自分に問うた。どっちが非現実なのだろう? -私がそこから出てきたあの燃えさかる、空虚な、恐れおののく、懐疑的な自己の恍惚状態のほうなのか? それとも、そうした内的な自己を蔽うて肉と血とをそなえた月並みな自己を形成しているこれら周囲の現象や習慣のほうなのか? と。さらに、人間は自分で何かそういう夢を生み出すのであって、その夢のような実体のないものを人間はそのような重大な瞬間に意識するのであろうか? 夢幻状態の最終段階に達してしまったら、何事が起こるのであろうか? と。」(1)

(1)H.F.Brown : J.A.Symonds, a Biography, London, 1895, pp. 29-31, abridged.

 

・・・酔わせたり麻痺させたりする薬剤、ことにアルコールによって惹き起こされる意識・・・。アルコールが人類に対して猛威を振うのは、確かにアルコールが、ふだんは冷たい現実と正気(しらふ)の時の仮借ない批判とによって抑えつけられて人間性の神秘的な能力を刺激する力をもっているからのことである。正気(しらふ)は縮め、分離し、そして否(ノー)と言い、酩酊は広げ、統合し、そして諾(イエス)と言う。事実、アルコールは人間のなかの応諾(イエス)機能の大きな推進力なのである。それはその愛好者を事物の冷たい外面から光り輝く中心へ連れ込んでゆく。それは、その瞬間、彼を真理と合体させる。人々は単に堕落したからアルコールを追求するというわけではない。貧しい人々や無学な人々にとっては、アルコールはシンフォニー・コンサートや文学の代用なのである。しかし、私たちがそれ自体としてはすばらしいものと端的に認めるものを、すすったり一服したりすることが、私たちの多くの者には、ほろ酔いの程度にしかたしなむことを許されず、たらふく飲んでは人を堕落させる毒となるとは、なんという人生の深刻な神秘であり、悲劇であろう。酩酊した意識は神秘的意識の一片である。そしてそれについて私たちのいだく全体的な意見は、そのいっそう大きい全体について私たちのいだく意見の一部でなければならない。”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 下』桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 182~193)

 

以上の記述の中で、W・ジェームズは、「意識の神秘的状態」「神秘主義」の指標を四つあげつつ、特に、「言い表しようがないということ」と「認識的性質」の二つの特徴があれば、「わたしの用いるような意味では、神秘的と呼んでいいであろう」と述べる。

彼は、神秘的状態の「言い表しようがないこと」を、「神秘的状態は知的な状態よりもむしろ感情の状態に似ている」と言う。しかし、次の「認識的性質」において、「神秘的な状態は、感情の状態にたいへんよく似ているけれども、それを経験した人々にとっては、また知識の状態でもあるように思われる」とも述べ、一見前言を翻しているようにも感じられる。

知的な状態よりも感情の状態に似ているが、神秘家自身にとっては、「知識の状態でもある」。

「神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。」

人間は、日常の生活の場では、「比量的な知性/計算」と言葉によって、他者とやりとりをする。

しかし、非日常の領域である神秘的状態において、人間は、計算と言葉には(容易には)還元できない真理の深みを洞察し、照明/啓示を得る。

 

「意識の神秘的状態」は、単なる感情ではない。また、それは、悟性的な思考でもない。

そこには、意志的な思考が働いている。それは、霊的な思考/純粋思考である。

純粋思考の記述に、日常言語を用いることは可能である。例えば、福音書のように。このとき、日常言語は、いわば実体変化を起こす。日常言語が、純粋思考の言語に変容するのである。

 

”神秘的経験のもっとも単純な階梯は、ある格言とか文章とかのもっている深い意味が、何かのはずみにいっそう深い意味を帯びて突然にパッとひらめく、という場合であるのが普通である。「そのことを私は年がら年中、耳にしてきたのに」と私たちは叫んで言う、「今の今ままでその十分な意味を実感したことがなかった」と。「仲間の一修道士が、」とルターは言った、「ある日のこと、使徒信条のなかの『われは罪の赦しを信ず』という言葉を復誦しているのを聞いたとき、私は聖書がまったく新しい光に照らされるのを見た、そしてたちまち私は自分が新しく生まれたように感じた。まるで楽園の戸がひろびろと開かれるのを見たようであった。」このようにふだんよりもいっそう深い意義が感じられるのは、筋道だった文章に限らない。たった一語でも、語句でも、海や陸の光の作用でも、芳香でも、楽の音でも、心の調子が正しく合っていさえすれば、すべてそれを感じさせるのである。・・・私たちは、この神秘的な感受性を保持しているか喪失しているかに応じて、芸術の永遠の内的啓示に対して生きているともいえるし、死んでいるともいえるのである。”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 下』桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 186,187)

 

この記述は、神秘的経験の原形を、分かりやすく特徴づけることに成功していると思う。

W・ジェームズは、これを「神秘的経験のもっとも単純な階梯」と称し、これに続く部分で、「神秘的な意識状態のはるかに極端なもの」として、J・A・シモンズの例を引く。

 

”・・・私がこの種の夢幻の境を好まなかったのは、一つには、私がそれを自分自身に説明することができなかったからであった。私はいまでも、これを説明できるような言葉を見つけることができない。それは空間と時間と感覚と、それから私たちが好んで私たちの自己と呼んでいるものの性質をなしていると思われる経験の種々さまざまな因子とが、一つまた一つと、だんだんに、しかし速やかに消えてゆくことであった。・・・”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 下』桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 191)

 

シモンズは、「空間と時間と感覚」が「消えてゆく」と述べる。

私たちがこの地上の生活の枠組みとしている三次元空間と、過去から未来へ向かって進むように感じられる時間と、それに付随して私たちの魂の空間を満たす種々のイメージが、「消えてゆく」のである。

「私たちが好んで私たちの自己と呼んでいるものの性質をなしていると思われる経験の種々さまざまな因子」つまり、文脈イメージの集積/ミームとしての低次の自我が、「消えてゆく」。

 

そして、決定的な出来事が起こる。

シモンズはその体験を、次のように報告している。

 

”・・・こうして正常な意識の条件が引き去られてゆくのに比例して、下層にある意識、あるいは本質的な意識の感じが強度を加えてきた。最後には、純粋な、絶対的な、抽象的な自己のほかなにも残らなかった。宇宙は形もなくなり内容も空虚になってしまった。しかし自己は、恐ろしいほどいきいきと鋭く研ぎすまされて、現実に対して極度に激しい懐疑を感じながら、まるで泡がそのまわりで破れるように世界が破れ散るのも平気で、生きつづけた。そしてそれからどうしたか? 解体が来はしないかという不安、この状態が意識的自己の最後の状態なのだという冷厳な確信、私が存在の最後の糸を辿って深淵の辺まで至りついてしまい、永遠の虚妄(マーヤ)あるいは幻影の証明に達してしまったという感じ、それらが私をふたたび揺り動かした、あるいはうちゆすぶるように思われた。・・・”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 下』桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 191)

 

そう、「私が存在の最後の糸を辿って深淵の辺まで至りついてしまい、永遠の虚妄(マーヤ)あるいは幻影の証明に達してしまったという感じ」が起こるのである。

彼は、「深淵の辺」つまり生と死の淵に至り、それまでの地上の生において彼が囚われていたすべてのミーム/イメージ体が、「永遠の虚妄(マーヤ)/幻影」であることを見抜くのだ。

そして、高次の自我/純粋思考こそが、実相であることを知るのである。

 

人は、生と死の深淵にまで至ると、地上の人生の虚妄(マーヤ)を知る。

エーテル界/霊界の側から、この地上の生を見やることによって、それを構成しているものが仮象/イメージであり、そのイメージの世界を生み出しているものが、ミーム/文脈イメージとしての低次の自我に他ならないことに気づく。

つまり、人は一度いわば死ぬことによって、むしろそのことを通して、霊的生命の世界へと至るのである。

その道は、基本的に思考の道/認識の道である。その道は、そのまま霊的思考/意志的な思考/純粋思考の道へとつながる。神秘主義という魂の状態を突きつめるならば、霊的思考/意志的な思考/純粋思考の道へと向かわざるを得ない。

 

さて、W・ジェームズが引用しているいま一つの例、テニスンの例について、考えておこう。

 

”神秘的経験の階梯のもう一歩進んだ段階は、きわめてしばしば見られる現象のうちに見いだされる。つまり、「前ここにいたことがある」という、ときどき私たちを襲ってくる突然の感情であって、いつか、遠い遠い昔、ちょうどこの同じ場所で、この同じ人々と一緒に、まったく同じことを話したことがある、という感じである。テニスンが書いているように、

「その上、なにかがある、あるいは、あるらしい、それが神秘的な光で私に触れる、忘れられた夢の閃きのように。-

「ここでと同じになにかが感じられ どこだか知らないが、なにかがなされている、けれどそれは言葉には言えない。」”(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相 下』桝田啓三郎訳 岩波文庫 p. 188)

 

この現象は、一見、いわゆるデジャヴュ(既視感)のように思われるかもしれないが、そうではない。

そうではなくて、これこそ人類の星の時間に伴う感じなのである。

テニスンは述べている。

「その上、なにかがある、あるいは、あるらしい、それが神秘的な光で私に触れる、忘れられた夢の閃きのように。-

ここでと同じになにかが感じられ どこだか知らないが、なにかがなされている、けれどそれは言葉には言えない。」

「なにか」とは、思考体としての霊のこと。「神秘的な光」という表現が、これが照明/啓示であることを示している。

「ここでと同じになにかが感じられ」とは、まさにこの人類の星の時間において、霊/思考体が現れ、「どこだか知らないが、なにかがなされている」とは、他ならぬ人類の星の時間にあって、新しいカルマが編まれていることを示唆している。

つまり、テニスンの高次の自我と人類の同胞の未来に関わる事柄が、ここでは進行するのである。

 

W・ジェームズは、神秘的経験とアルコールの関係についても、言及している。

「・・・アルコールが、ふだんは冷たい現実と正気(しらふ)の時の仮借ない批判とによって抑えつけられて人間性の神秘的な能力を刺激する力をもっている・・・。正気(しらふ)は縮め、分離し、そして否(ノー)と言い、酩酊は広げ、統合し、そして諾(イエス)と言う。事実、アルコールは人間のなかの応諾(イエス)機能の大きな推進力なのである。それはその愛好者を事物の冷たい外面から光り輝く中心へ連れ込んでゆく。それは、その瞬間、彼を真理と合体させる。」と、W・ジェームズは述べているが、アルコールが、「人間のなかの応諾(イエス)機能の大きな推進力」であるとは、アルコールを摂取することで、人間の共感力が高まる、と言っているに等しい。通常、素面(しらふ)のときに働く、分析的知性/悟性が、アルコールによって弱まり、共感と他者を受容する魂の力が強くなる。これが昂進(こうしん)すると、個と個とを結びつけ、有機的なネットワーク/まとまりを形成しようとするモティベーションが生じてくる。酒が入るとおしゃべりになるのはそのせいである。

 

しかし、「たらふく飲んでは人を堕落させる毒となる」。毎日飲むとアルコール依存症になることだってある。

アルコールには、人をいわば非日常の世界へと誘う力がある、麻薬と同じように。

アルコールも含めて、ドラッグの問題の核は、その酩酊の過程において、私/あなた が、主体/自我としてのコントロールを失うところにある。そのようにして、コントロールを完全に失って、生と死の深淵にまで(地獄にまで)、下降してゆき、そこで死の天使を垣間見る、そのようなところにまで行くとしたら、それはそれで意味があるのかもしれない。ただし、生き返って通常の地上の生活に戻れるという保証はない。

 

ドラッグによって、自らの悟性魂/心情魂の縛りを解くやり方には、大きなリスクが伴う。

 

”「神秘学を学ぶ人は、完全な意識を保ったまま訓練を行わなくてはならない」ということが、真の神秘学の原則の一つです。神秘学の学徒は、それがどのような作用を及ぼすのか、ということを自分で認識していない事柄に関しては、どのようなことも行ったり、訓練したりしてはなりません。だからこそ神秘学の師は、学徒に助言したり、指示したりするときには、このような助言や指示に従うと高次の認識をめざす人間の体や魂や霊に何が生じるのか、ということをいつも同時に教えるようにするのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 133)

 

古き者たちが新しき者たちの足を引っ張って、その古い世界にとどめておこうとするのは、言ってみれば、世の常である。新しき者たちが現れ、それまでとは違う新しい世界を構築すると、古き者たちの居場所がなくなってしまうからだ。

古き者たちが、自分たちの生活を更新し、新しきものに対応することができるならば、彼らの居場所は新しき世界の中にもあるだろう。そのためには、古き者たちが、いわば進化を遂げなければならない。

現代という人類進化のこの歴史的局面において、古き者とは、悟性魂/心情魂のミームである。

そして新しき者は、この悟性魂/心情魂ミームから脱け出そうとする。その意識魂と純粋思考によって。「完全な意識を保ったまま」。

つまり、もはやアカデミズムやマスメディアのポピュリズム/センチメンタリズムに依存してはいられない。つまり、例えば読書するにも、何をどのように読むのか、自分で見つけ出し、判断する必要がある。つまり、自分で考えるのだ。例えば、ある書物のある部分がどうしても理解できなかったり、なかなか読み進められなかったりするだろう。ちょっと読むのをやめて、なぜ理解できないのか、そもそも著者自身分かっていないことを書き散らしてはいないか、読み進めない部分をさらに無理して読み進める必要があるのか、等々、でき得る限り取り得るあらゆる選択肢を探る。そして、自ら方針を出す。この決定は、可能な限りの純粋思考的な意思決定である。意志的な思考を成したということである。

今、そのような主体性が求められている。それがなければ、人は悟性魂/心情魂のミームに沈むほかない。

 

悟性魂/心情魂のミームには、霊的生命が流れていない/宿っていないので、その中に囚われた人の魂は、早晩、硬直して、干からびてしまう。これは、霊的な死に等しい。

そのようないわば極限状況に陥った魂は、我知らず、非常手段に訴えることがある。

脱魂状態/神懸かりの状態を呈して、古いミーム/文脈イメージを突如拒絶するに至る。古いミームに息苦しさ/生きにくさを感じている他の魂が、それに同調する。これは、これまで何度も繰り返されてきた、いわば「いつか来た道」と言えば言える類の現象である。

また、これは高度技術社会の成せる業と言えば言えるが、AIや宇宙テクノロジーを利用することで、現状を打開するという、ちょうどアーリマン/ルシファー幻想の現代版のような思考がある。霊性がまったく顧みられていないという意味において、これもまたやはり古いのである。悟性魂/心情魂のミームの中で、思考が展開されているのである。この思考は、生と死の深淵であるエーテル界/霊界へ参入したことのある人間の思考ではない。

 

さて、クンダリニーによって、神秘的体験が惹き起こされる。多くの場合、このクンダリニーの覚醒/上昇は、十分管理されたものではないから、なぜそのような出来事が起こるのか、本人も含めて誰にも分からない。多くの場合、分からないまま、それは放置される。放置され、コントロールされない。いわゆるクンダリニー症候群が、今、蔓延しようとしている。もちろん、それをめぐる的確な統計など、当然のことながら、存在しない。