クンダリニーについて考える(1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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ヒンドゥーの伝統の文脈に由来するクンダリニーについて、一度自分なりにとらえ直しをしておきたい。

 

誰もが多かれ少なかれ、クンダリニーのエネルギーを利用している。多くの場合、はっきりとは意識せずに。

クンダリニーについて一般向けに分かりやすく説明した書物はない。ヒンドゥーの伝統の中では、主にハタ・ヨーガの口伝と身体法によって、その覚醒が追及されてきた。グルにつかなければならないということだ。もちろん、そのグルが本物かどうかは、誰にもわからない。

 

誰もが多かれ少なかれ、そのエネルギーを使っているということは、その覚醒にも程度や状態の違いが見られるということを意味する。多かれ少なかれ、誰でもそのクンダリニーは、覚醒はしているわけだ。ただし、なぜ覚醒しているのか、どのようにして覚醒したのか、また、それが通常の状態なのか、そもそも異常と言えるような状態が存在するのか、etc. なーんにも分かっていない。

 

しかし、私を含めて、多くの人が、いわゆるクンダリニー症候群に類似した/酷似した状態を体験しながら、精神科を受診したところで、そもそもその診療体系にクンダリニーなどという概念は存在しないから、納得のいく説明を得られる可能性はゼロである。

だから、私は自分でそれを考えるしかない。いずれにしても、自分で考えるべきなのである。それが、思考の道の基本である。このやり方以外に、クンダリニー云々問題をどうこうする方策は、はっきり言っておきたいのだが、無い(!)。

 

例えば、誰かの写真が(私の場合は、妻の写真だったが)、一種イコンのような作用を、私の魂に及ぼす、ということがある。ギリシャ正教のイコンが発する強い精力/聖性のように。イコンの発するこのような霊的エネルギーに、また別のものが追加されたとき、例えば、霊的な書物を読むことによって、瞑想が深まっていると、霊的なエネルギーは増幅されるだろう。

このようなことが、日常的に繰り返されていると、シュタイナーが『いかにして高次の世界を認識するか』の中で述べているような、チャクラの発達が始まるのである。

 

ここで起こっているのは、霊的なるものが、私の魂に働きかけているということだ。

霊的なるものとは、思考体である。それは、様々な形/姿をとる。しかし、それは、ミーム由来のイメージとは異なる。

ミーム由来のイメージには、私の魂に霊的プロセスを引き起こす力はない。それが、魂にもたらすのは、センチメンタリズムであり、悟性魂/心情魂の領域を脱け出ることはない。

霊的なるもの/思考体は、性的オーガズムに似たもの、霊的な波動のようなものを、もたらすことによって、悟性魂/心情魂の軛(くびき)をはずすのである。

だから、ここで確認しておきたいことは、純粋思考/思考体というものを、そのようなベクトルの下に、とらえておく必要があるということである。それは、言葉の問題ではない。言語的なテキストなどでは、そもそもないのである。シュタイナーは、「理念/Idee」という言葉でそれを表現することがある。私は、「理念/Idee」と聞いて、即座に納得する人は、あまりいないと思う。もちろん、「理念/Idee」のもともとの語義を知らなくても、自分なりに思考し、シュタイナーの言いたいこと、その文脈が分かればいいのである。

 

さて、そうは言っても、クンダリニーに起因する様々な生活上の問題は、不可避的に、生じる。誰もが、常時、その危機にさらされている。いわゆるクンダリニー症候群は、いまや/もはや、万人の病(もちろん、それは本当は病と呼ぶべきではない)なのだ。注意を怠るのは、まさに命取りなのである。

このいわゆるクンダリニー症候群なる状態において、いやむしろ、・・・いやむしろ、この意識魂の時代において、それはカルマ的な試練であり、秘儀に他ならない。命がけの試みである。

未だ多くの人が持ち得ていない、霊的な勇気と覚悟が必要なのだ。

 

そして、この場合、霊的な勇気と覚悟は、本来の意志の別名なのである。

そして、この意志は、一人ひとりの人間の高次の自我の意志であり、その人間自身の純粋思考をとおして、生み出される。

自我こそが意志の担い手であることを考えれば、この意志は高次の自我に他ならず、高次の自我は純粋思考を成す主体である。だから、高次の自我においては、意志と思考とを区別することはできない。