クンダリニーについて考える(5) ~ プラーナ | 大分アントロポゾフィー研究会

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さて、引き続き、『クンダリニー』(ゴーピ・クリシュナ)やルドルフ・シュタイナーなどを引きながら、クンダリニーにまつわる事柄について考えていきたい。

 

”さて、一切のヨーガ行法は、人体の生存がプラーナという、宇宙に遍満しているきわめて霊妙な非物質的なものの働きに依存していることを前提としている。プラーナは有機現象の原因であって、神経組織や頭脳の機能を統御するところの生命維持に不可欠のエネルギーである。プラーナについては、今日では一般に「生命エネルギー」といういい方が普及しているが、実はこれは人体内で異なる作用を行なうために、さまざまな形相をとる。まず、プラーナは体内では熱流と寒流という二つの流れとなって循環している。私自身の体験からも、人体には冷却作用と温熱作用を受けもつ二つの主要なエネルギーの流れのあることは確言できる。

プラーナとアパーナは体内のあらゆる組織、あらゆる細胞の中で対をなして存在し、神経の主脈から支脈にいたる経路を、それぞれ別々の二つの流れとなって移動している。ただ、生命の誕生以来、神経脈はその流れになじんでいるため、通常の意識状態ではそのことが感取されない。

・・・

地球自体がプラーナの供給源である。山や海や大気をはじめ、地上のあらゆる物質、地殻の下のマグマにもプラーナはある。太陽は生命エネルギーの巨大な貯蔵庫で、光や熱とともに途方もない量のプラーナを不断に送り続けてきている。月もまた大きなプラーナの放射源である。太陽、月、惑星、恒星などすべてがプラーナを放射しているのである。ただ、各天体が発する光を分光器で分析してみた時、各々独特のスペクトルを示すように、それぞれが放射するプラーナにも特色がある。

何十億の天体から発する生命エネルギーたるプラーナの流れは、大宇宙を不断にゆきかっている。一つのプラーナの流れがあるとすると、それを横切る別の流れがある。その逆巻く流れのまんなかに動きをとめたようなところができ、それがまた時々鼓動をくり返す。霊眼の開けた者に映るこうした千変万化の光景は、とうてい筆舌の及ぶところではない。

・・・

・・・昔から太陽と月から発せられるプラーナの放射は、特に重視されてきた。ヨーガの行法は、そもそもこうした知覚しうる超物質的媒体としてのプラーナが確かに存在するということを前提としているのである。数千年もの間、ヨギたちは何代にもわたって先人の言葉をそれぞれ実証してきた。そして、これまでプラーナが三昧といわれる超意識的状態をもたらす主要な要素であることに疑問をさしはさんだヨーガの流派は皆無なのである。ヨーガを信ずるものは、ともかくまずプラーナを信じなければならない。

行法を成就した多くの霊眼者は、先師から学んだとおり順序立ててプラーナを動かし、初めて超感覚的意識状態に到達したとはっきり証言している。ただ、ヨーガの実習で成功するためには精神的、肉体的な特別の素質も必要だが、同時に清廉潔白にして篤実高邁という人格的条件のことも忘れてはならない。

先史時代にさかのぼるインドの宗教的信仰では、プラーナの存在は生物有機体にあっては思考活動ならびに感覚や刺戟の伝達を司る媒体として、ヒンドゥーの宇宙論者による分類では、地、水、火、風、空といわれる物質の形成にかかわる通常は知覚しえない宇宙素子として、はっきり認知されているものであって、ヨーガの実修がしかるべき家柄のいやしからざる人物によって行われる時に確認されうるものであるという。

この信仰によれば、プラーナは物質でもなく、精神や知性、意識でもない。むしろ、そうしたものすべての中に存在する宇宙エネルギー、すなわちシャクティと不可分なものであって、あらゆる宇宙の諸現象の背後に、物質にあっては力として、生物や有機体においては生命力として発言する起動力である。簡単にいえば、プラーナとは、宇宙の知性ある存在が、この壮麗な宇宙における遠大な活動を遂行する時に用いる媒体であって、宇宙空間で不断に燃え続ける巨大な天球から、地上のいたるところに生息するさまざまな微生物までをも創造し、維持し、破壊するところのものである。

シャクティは無機物に向けられる時、力となり、有機体に用いられると生命となる。この二者は有機・無機の両界で働く創造的な宇宙エネルギーの表裏をなしている。便宜上、また混乱を避けるために、プラーナとかプラーナ・シャクティという用語は、一般に、神経的刺激や生命力のように有機的世界で働く宇宙エネルギーの局面を指すのに使われ、生物、無生物を問わず一般的なエネルギー、つまり諸法実相の創造的、活動的な形のエネルギーを指す時には、シャクティという全体的名称が用いられる。クンダリニーについて論議する場合、有機体の内部でのみ作用する生命エネルギーたるプラーナ、すなわりプラーナ・シャクティだけが問題で、場合によってはこれを簡略化してシャクティということもある。だが、シャクティという言葉は、厳密にいえば、天地万物の創造者たる宇宙的エネルギーを指すのである。

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ヨギたちによれば、不死の実体としての生命エネルギーの存在は、三昧の超越的意識状態において主観的には明白になる。しかし、そこまでいかなくても、神経系をプラーナが流れる様子は、瞑想がうまくいってある深みにまで到達すれば、すぐにも体験できるのである。三昧に入ると、フル回転する頭脳のプラーナ要求度が高まり、これを充足させるため、肉体の他の部分にある生命エネルギー、すなわちプラーナがどんどん頭頂に動員されることになる。その結果、時とすると、心臓、肺、胃腸といった重要な臓器も、停止寸前というところまで機能が低下し、呼吸もあるかなきかの状態になって、身体全体が死んだように冷たくなってしまう。一方、頭脳の方は流入する生命エネルギーの増大のため、普段よりはるかに生き生きしてくる。意識表層が感受器官の枠をこえ、認識力が拡大されるので、超物質的存在にたいする目も開かれてくる。こうした状況において、最初に知覚されるのはプラーナで、これは身体の内にもあって周囲に光を発しながら急速に振動する非物質的なものとして意識される。

ヨーガの用語ではプラーナが生命であり、生命がプラーナである。ここで用いられている意味での生命や生命力というものは、霊魂とか人間の内なる神霊のひらめきを指すものではない。プラーナとは神が生物界を創造し、生物体に働きかけるのに用いた生命エネルギーにすぎない。これは神が物質的エネルギーによって宇宙を創造し、それに作用を及ぼしているのに対応するものである。太陽光線が太陽でないのと同様、プラーナは実体そのものではないが本質的にその部分であり、さまざまな形相をとり、無数の種の創成にかかわり、複雑な生命体を創造するためにたゆむことなく部品やレンガを組み立てている。・・・

・・・

プラーナは、われわれの五官によってとらえられる宇宙よりもさらに壮大な拡がりをもつ大宇宙として存在し、そこにはわれわれの見る恒星や惑星にあたるものもある。大宇宙をつくる素材にも部品にも、運動にも慣性にも、光にも影にも、法則にも属性にも、眼前の宇宙にも、われわれの思考と活動の中にも、物質を形づくる原子と分子の中にもプラーナは存在する。プラーナは光とともに放射され、空気や潮の干満とともに、驚くほど繊細、軽妙に動き、われわれの夢と希望の糧になり、人間実存の構造自体に織りこまれている創造の生命原理である。

生きている身体の細胞や器官に、驚くべき物理的、化学的反応を起こさせる神秘的なものはいったい何か。どんなに頭のよい者でも、自分の体内でどんなことが起こっているのかはわかるまい。母の胎内で肉体という機械をつくりあげ、これを統御し、病身にあってはこれを保護し、危険に際してこれを支え、傷を受けるとそれをいやし、就寝中も精神錯乱中も、無意識の中でも、黙々として身体の管理をしているのは何か。風が葦を動かすように、身体の中に衝動と傾向を生みだし、それを動かしているものはいったい何か。実は、これらのことすべてを遂行しているものこそプラーナにほかならない。プラーナは常に舞台の背後に退いて表には出てこない。そこで、表面意識はついつい、自分が考えたり行動したりする際の主体だと思いこんでしまう。しかし、その真実の主体は、人知をこえた不可思議な実体、宇宙エネルギーの生命的発現たるプラーナ・シャクティなのである。

クンダリニー・ヨーガの創始者たちは、おそらく、長年月にわたり学者たちに実験を繰り返させ、個人的ならびに宇宙的視点から、プラーナの存在が具体的事実であることを認めたのであろう。そして、頭脳に流れこむプラーナの量をふやすことによって、神経組織を意志的に動かすことが可能になるという重大な発見に到達したのである。プラーナが多くなれば、当然、脳の活動レベルも高まる。そこで、この目的を達成するために、肉体と精神の訓練方法をいろいろ開発したものと思われる。彼らは首尾よく精神集中法を主要な行として立てるにいたり、これがあらゆるヨーガの基本になった。これは自然によって課せられた方法とも一致していたので、人間の進化を促進する効果を生みことにもなった。

彼らは精神のコントロールと集中法にある程度習熟してくると、背骨の中心の中空部分を通して、急速に動きまわる、まばゆい強力な光の束をうまく頭脳にひきあげられるようになった。むろん、最初はきわめて短時間にすぎなかったが、行を積むうちにその時間も長くなった。このことは、人間の精神に驚くべき効果をもたらすことになった。精神はそこで、粗雑な物質世界では望むべくもない、至高の光明世界に上昇する可能性を開くにいたったのである。

・・・彼らはやがて至高の意識状態の中で、物質的世界と相互浸透的に併存する霊妙な生命世界のあることを確認した。・・・”(ゴーピ・クリシュナ『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社 p. 101~109)

 

人間の体(たい)が、神々/霊的ヒエラルキアから、いわば借り受けたものであり、人間の自我は、いわばそこに寄宿しているという構造になっている。その体に、宇宙的生命であるプラーナが、クンダリニーとして具わり、人間の成長を促している。

しかし、どういう風の吹き回しか、人はプラーナ及びクンダリニーのことを意識することはなく、知ることもない。ハタ・ヨーガのような秘教的な伝統の中では、プラーナ及びクンダリニーのことが知られてはいたが、それにまつわる秘儀の詳細については、要するに秘密で、あろうことか、そのための教師自身がもはや権威を半ば失ったも同然だった。つまり、本当のことを知っている人がいないという状況だったし、今もなおそれは変わらない。

 

ただし、次のことはもはや明白である。

 

1 プラーナは宇宙的生命(霊的生命と言ってもよい)であり、霊的ヒエラルキア、つまり森羅万象を創造した神々から人間が受肉の度に借り受ける体(たい)に分有され、クンダリニーと呼ばれる。

1-1 人間の成長の主体はその人間の自我であるが、自我は成長のためにクンダリニーの力(生命力)を用いる。

1-1ー1 通常、人間は、高次のヒエラルキアから人間に貸し与えられた体(たい)の力学に従って、この地上の世界に生き、成長するので、クンダリニーの力が表立って強烈に作用することはない。それは、いわば、穏やかに隠れて作用する。

1-2 自我の意識性が高まり、人間が体の力学から自立するのにともなって、強烈な力をもつクンダリニーに対して、いわば最高度の意識性を以て、向かいあう必要が出てくる。さもなければ、クンダリニーのエネルギー/炎は、奔流のようになって、人間の体の中を動き、私は自らの体と魂において、まったく予期せぬ数々の出来事に遭遇し、自律性を保持できなくなる。動揺するのである。

1-2-1 意識性の高まりとともに、人間の魂は意識魂へと成長する道をたどる。これは、その人が純粋思考を成すことと同意である。

1-2-2 しかし、意識魂の成長には時間がかかり、人が純粋思考を十全に成し得るに至るにも時間と意識的な努力が必要であるから、また、人が今生のみで、意識魂の完成と十全なる純粋思考を成すに至ることは、まずあり得ないので、言ってみれば、一端(いっぱし)の大人の人間なら誰もが、クンダリニーの炎との対峙を余儀なくされている、と考えるのが妥当である。このとき、クンダリニーはその野生の本性をむき出しにする、と言えるだろう。

1-3 人間の体と魂において、クンダリニーの野生を統御する可能性を持つ唯一のものこそ、純粋思考であり、人間の高次の自我である。

1-3-1 ミームは、森羅万象の一部である人間の体の力学に従う。ミームこそ、悟性魂/心情魂の本質であり、そこにはアーリマン/ルシファーが浸潤している。アーリマン/ルシファーによって、私たちは宇宙の実相を見誤る。クンダリニーの炎に翻弄され、その力を誤用するだろう。

 

2 クンダリニーに翻弄されるのではなく、それを統御し、その霊的エネルギーを活用すること。

2-1 クンダリニーを統御できるのは、純粋思考のみ。しかし、純粋思考は、未だいわば赤子のような状態である。そして、純粋思考に至るためには、クンダリニーとのいわば格闘が要る。

2-1-1 「クンダリニー・ヨーガの創始者たちは、・・・頭脳に流れこむプラーナの量をふやすことによって、神経組織を意志的に動かすことが可能になるという重大な発見に到達したのである。プラーナが多くなれば、当然、脳の活動レベルも高まる。そこで、この目的を達成するために、肉体と精神の訓練方法をいろいろ開発したものと思われる。彼らは首尾よく精神集中法を主要な行として立てるにいたり、これがあらゆるヨーガの基本になった。」とゴーピ・クリシュナは述べる。

2-1-2 「神経組織を意志的に動かすこと」は、換言すると、純粋思考を成すことである。純粋思考は意志的な思考として特徴づけることが可能である。この文脈において、純粋思考を成す主体こそ、高次の自我であり、それは意志であり、思考である。つまり、「高次の自我-意志-純粋思考」と同定(構造化)できる。

2-1-3 ゴーピ・クリシュナによれば、クンダリニー・ヨーガの創始者たちは、「頭脳に流れこむプラーナの量をふやすことによって」、純粋思考を活性化させることが可能になることを発見した。プラーナから分岐・派生したものがクンダリニーである。「頭脳に流れこむプラーナの量をふやす」ために、彼らは精神集中法を主要な行として、ヨーガを開発した。

2-2 純粋思考を活性化させると、やがていわゆる三昧(ざんまい)と称される意識状態が生じてくる。もちろん、完全な三昧にまで到達する可能性は、通常の場合、ほとんどないに等しい。ただし、そこに至るまでに多様な/多彩な中間段階があり得る。

2-2-1 「三昧に入ると、フル回転する頭脳のプラーナ要求度が高まり、これを充足させるため、肉体の他の部分にある生命エネルギー、すなわちプラーナがどんどん頭頂に動員されることになる。その結果、時とすると、心臓、肺、胃腸といった重要な臓器も、停止寸前というところまで機能が低下し、呼吸もあるかなきかの状態になって、身体全体が死んだように冷たくなってしまう。」とゴーピ・クリシュナは述べている。

 

3 完全な三昧は最高レベルの変性意識状態/altered state of consciousness である。そして、それに至る過程において、魂は多種多様の変性意識状態を体験し得る。

3-1 それらの変性意識状態に入った人間は、通常の日常生活をおくれない心身の状態に陥る場合がある。

 

4 アストラル体が、意識の担い手。エーテル体が、思考と記憶/想起を司る。

4-1 人間の体(たい)の細部にまでエーテル体として流れ、体を媒介にして、自我を成長させる思考が、本来の姿、つまり純粋思考として認知されるためには、アストラル体の浄化が不可欠である。

4-2 アストラル体の不浄を生み出しているものは、ミームである。ミームは、種々雑多な文脈イメージの集合体である。それらの文脈イメージは、アーリマン/ルシファー由来であり、人間の自我はそれらに対峙し、自らの純粋思考によって、古きものとしてのその正体を暴き、それらに別れを告げることにより、成長する。

4-3 ゴーピ・クリシュナは、「行法を成就した多くの霊眼者は、先師から学んだとおり順序立ててプラーナを動かし、初めて超感覚的意識状態に到達したとはっきり証言している。ただ、ヨーガの実習で成功するためには精神的、肉体的な特別の素質も必要だが、同時に清廉潔白にして篤実高邁という人格的条件のことも忘れてはならない。」と述べる。

4-3-1 ここで特に強調しておくべきなのは、「清廉潔白」とか「篤実高邁」とゴーピ・クリシュナが特徴づけている「人格的条件」が、すぐれて「わたし/Ich」-「あなた/Du」という人間の個相互の関係性の中でこそ、問われるということである。つまり、ここには他ならぬ他者の秘儀という含みがあり、まさに今、人類史が意識魂の目覚めという一大進化を成そうとしているこの時、これまでにはない切実さをもって、私たち人類の前に提示されている大テーマなのである。

4-4 完全な三昧にまで至る変性意識状態が生まれるとき、そのような人格の涵養(かんよう)を抜きにして語ることはできない。なぜならば、精神的/肉体的な特別なあり方を形成/造形/構築する営みの内に、人格の涵養の営みが含まれているからである。両者は、別のものではないのである。そして、この認識なしに、アーリマン/ルシファーの浸潤する悟性魂/心情魂のミームに対峙することはできない相談なのである。

 

5 すぐれて現代的な時代的/歴史的テーマとして、「悟性魂/心情魂から意識魂へ」「ミームから純粋思考へ」という文脈がある。これらの文脈自体は、ミームの要素と成り得る文脈イメージであるが、この文脈イメージに高次の自我が純粋思考の光を当てることで、この文脈イメージの包含する意味合いが違ったものになる。

5-1 このとき、人間の体(たい)におけるプラーナ(宇宙的生命)すなわちクンダリニーが、そのテーマにいかにリンクしてくるのか、注意深く検討してみることが大切である。

5-2 クンダリニーは、人間の体におけるプラーナ(宇宙的生命)の現れであり、エーテル体に同定することができる。

5-2-1 人間がエーテル体に働きかけることは、アストラル体に働きかけるよりも難しい。そう簡単にはコントロールできないし、変容させる(修正を加える)ことも容易ではない。流動するエーテル体の流れの向きや流量を意図的に変えるのは、まさに至難の業である。

5-2-2 端的に言えば、自分の魂に巣食ったいくつものミームを相対化し、それらから自分を引き離し、独立させることにより、はっきりとした意図をもって、アストラル体に関与することができるようになる。このとき、霊的な器官としてのチャクラが開発される。

5-2-3 エーテル体に対しては、生活全般にわたる意識性と自律性の獲得をとおして、働きかける。具体的に言えば、少なくとも、家事全般をでき得る限り自分で行うように心がける。自ずと生み出される、何事にもとらわれない生活上の自在さとでも言うべき生活態度が肝要となる。このような生活態度は、純粋思考を通してのみ、生み出される。純粋思考は、言うまでもなく、意志的な思考である。意志的なものを鍛え、強化することによって、初めて、エーテル体に働きかけることができるようになってくる。

5-3 純粋思考は、既存の文脈イメージとアルゴリズムをなぞるだけの機械的な悟性的思考とは異なり、それ自身の内に生命が宿り、ヨハネによる福音書冒頭に記された「ロゴス」という名前が指し示すのと同質の、まさに・・・それは、意志的思考とも言える生活実践に直結する思考のあり方/営みに他ならない。

5-3-1 このとき、純粋思考は、これまでの人類史の過去を生み出してきた霊的存在たちに、最大限の敬意を払いつつ、いわば批判的に対峙し、先へと進む。彼らは、アーリマンとルシファーに他ならない。

5-3-2 ルドルフ・シュタイナーは、例えばアーリマンに関連して、「ピアノは、極めてアーリマン的な楽器である」「アーリマンはキリストの一部である」などの含蓄の深い言葉を遺している。ルシファーに関しては、もはや言わずもがなであろう。

 

次に、ルドルフ・シュタイナーによる1908年の講演『ヨハネ福音書 Das Johannes-Evangelium』から。

 

”・・・古代においてそのこと(秘儀参入)が成就されるためには、肉体、エーテル体、アストラル体、自我のすべてが、特別の状態に移されねばなりませんでした。秘儀に参入する人は、事情に通じた導師によって、三日半の間、仮死状態に移されました。次のような理由から、そうされたのです。

現在の進化期においては、人が通常の意味で眠りますと、その肉体とエーテル体はベッドに横たわり、自我はアストラル体と共に外へ出ていきます。そのときは、周囲に霊的な事象を知覚できません。なぜなら、そのアストラル体は、まだ霊的な知覚器官を持っておらず、周囲の世界を知覚できないからです。アストラル体と自我がふたたび肉体とエーテル体の中へ入り込み、ふたたび目や耳を使うことができるようになったとき初めて、物質界が環境世界として知覚できるのです。参入する人は学習によって、アストラル体の霊的な知覚器官を働かせることができるようになっていました。

さて、アストラル体の知覚器官が育成されたとき、アストラル体はみずからをエーテル体に、ちょうど印鑑の文字が封蠟に刻印されるように、刻印しなければなりません。秘儀伝授の準備はすべて、アストラル体をつくり変えるために必要な内的経過に没頭させることにあります。・・・瞑想と集中の行によって、内的に体験する事柄が、眼に対する光のように、耳に対する音のように、身体に作用するのです。瞑想と集中によってアストラル体がつくり変えられ、高次のアストラル界を見ることのできる認識の諸器官を育成するのです。しかしその諸器官は、まだエーテル体には十分刻印づけられていません。あらかじめアストラル体の中に形成されたものが、さらにエーテル体にみずからを刻印づけたとき初めて、その諸器官は確かな認識の働きをするようになるのです。しかしエーテル体が肉体の中に取り込まれている限り、修行によって獲得されたものをエーテル体に刻印づけることができません。そうするためには、あらかじめエーテル体が肉体から脱け出ていなければなりません。ですから三日半の仮死的な眠りの中で、エーテル体が肉体から脱け出たとき、アストラル体の中で準備されてきたすべてをそのエーテル体に刻印づけるのです。そのようにして、古代人は霊界を体験することができました。そして、祭司である導師によってふたたび肉体に呼び戻されたとき、みずからの体験によって、霊界の証人になったのです。

この経過は、イエス・キリストの出現によって、不必要になりました。事実、すぐに述べますように、現代人のエーテル体がいくら肉体の中に取り込まれているとしても、アストラル体が準備してきたものをそのエーテル体に刻印づけることができるくらいの強力な力が、ヨハネ福音書の中に存在しているのです。しかし、そのためには、イエス・キリストの存在を前提にすることができなければなりません。上述した経過を辿ることなしに、キリストへの瞑想行と集中行だけによって、アストラル体の中に育成されたものをエーテル体に刻印づけることができなければなりません。”(ルドルフ・シュタイナー『ヨハネ福音書講義』高橋巖訳 春秋社 p. 73~75)

 

6 古代における秘儀伝授は、その秘儀の伝統と導師の指導とに依存するのが通例であったが、現代において、それは、修行者個人とキリスト存在との親密な/内密の関係性の中で成される。極言すれば、修行者の自我とキリスト存在との間の、「わたし/Ich」-「あなた/Du」の関係において成されるのである。

6-1 「わたし/Ich」と「あなた/Du」の間に、他の何者も媒介になる必要がない。このような直接的な在り方を、ヨハネ福音書は可能にする。なぜならば、ヨハネ福音書は、他ならぬロゴスの言葉、純粋思考の言葉によって、書き記されているからである。

6-2 さて、本質的な問いをここで成そうと思う。

6-2-1 「わたし/Ich」とは誰なのか、あるいは何者なのか。

6-2-2 「あなた/Du」とは誰なのか、あるいは何者なのか。

6-3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受け入れるのである。」(「マタイによる福音書」第18章)とキリスト・イエスが語るように、その魂において純粋な、まさに子どものような人間だけが、この二つの問いに答えることができる。なぜならば、そのような人間は、何らかの出来事の中でめぐり会った特定の他者の本質を見抜いて/直観して、その他者を「あなた/Du」と呼び、「わたしの名のゆえに受けいれる」からである。

6-3-1 「わたしの名のゆえに」とはどういう意味か。これこそシュタイナーが、「イエス・キリストの存在を前提にすること」と述べた、まさにそれである。ヨハネ福音書には、そのようなキリスト存在の現前を、読む者に直観させる力があるのである。これは、まさしく、ゴルゴタの秘蹟を想起することに他ならない。記憶を呼び起こすこと、まさに想起なのである。

 

7 思考と記憶/想起の担い手こそ、エーテル体である。

7-1 そのエーテル体は、通常、「肉体の中に取り込まれている」。そのように、エーテル体が「肉体の中に取り込まれている」が故に、私たちは、穏やかに日々の生活を送ることができるのである。

7-2 古代の秘儀においては、「三日半の仮死的な眠りの中で、エーテル体が肉体から脱け出たとき、アストラル体の中で準備されてきたすべてをそのエーテル体に刻印づける」という段取りになっていた。「あらかじめアストラル体の中に形成されたものが、さらにエーテル体にみずからを刻印づけたとき初めて、その諸器官は確かな認識の働きをするようになる」という理由からである。アストラル体の中に形成される霊的諸器官とは、チャクラのことである。

7-2-1 古代においてと同様に、現代においても、このようなアストラル体とエーテル体との、いわば共同作業によって、秘儀参入が成し遂げられることに変わりはないとはいえ、「現代人のエーテル体がいくら肉体の中に取り込まれているとしても、アストラル体が準備してきたものをそのエーテル体に刻印づけることができるくらいの強力な力が、ヨハネ福音書の中に存在している」とシュタイナーは語る。

 

8 ゴーピ・クリシュナは、「クンダリニー・ヨーガの創始者たちは、・・・頭脳に流れこむプラーナの量をふやすことによって、神経組織を意志的に動かすことが可能になるという重大な発見に到達した」と述べる。これは、「アストラル体に流れこむエーテル体の量をふやすことによって、霊的認識器官であるチャクラを意志的に動かすことが可能になる」と読み換えることができる。ただし、ヒンドゥーの伝統においても、もちろんこのようにエーテル体の流れを意図的に調節したり、アストラ体の霊的器官であるチャクラを開発することは並大抵のことではなく、秘儀伝授に通じた導師の下においてのみ修業の成就が可能であった。可能だったとはいえ、その成功率はいかばかりであったか・・・。また、失敗した場合は、どのような事態が生じたのか、あるいは生じるのか。

8-1 「準備訓練期間もなく偶然に蛇の炎を点火してしまう人々」が、いた/いる(これからも)ことは間違いない。瞑想や集中の行、またヨーガなどによって、意図的に「蛇の炎」(野生状態のエーテル体)を点火するならまだしも、何の見通しも持たず、知識もなく、そのための準備などそもそも考えもよらない人のクンダリニーが、突然、勢いを得て、その人の体と魂の中で荒れ狂うとしたら・・・。そのような場合は、アストラル体とエーテル体の連携など問題外になってしまう。その人は、通常の日常生活を営むことができなくなる。

8-2 だから、そのような危機的状況を不用意にまねかないためにも、・・・そう、それはまさに待ったなしの瀬戸際、一度点火されると鎮火はまず不可能。しかもその炎は、その流れの向きも流れる速さも勢いもコントロールできない。

8-3 ただし、その炎の正体は、エーテル体である。

 

”本書があきらかにした点は驚くべきことなので、とても信じがたいことのようにみえるであろう。というのは、数世紀にもわたって秘密にされてきた問題を、初めてあからさまに検討しようとしているからである。

・・・

クンダリニー・ヨーガで悉地成就(しっじじょうじゅ)した導師はごくまれにしかいないし、今日では皆無に近いといってもよい。また、人生のある時点でクンダリニーが自然発生的に突然目覚めたというような場合、たいていその当人は正気を失ってしまうので、自己の体験を筋道立てて話すことが不可能になってしまう。こういうわけで、この奇妙な体験内容を詳細に書き綴ったものが、どこへいっても入手しがたいというのは当然なのである。

しかし、そうはいっても、この体験は実際、見かけほどには異常でもなければ、一般からまがいものときめつけられてきているわけでもない。今ある資料からみても、太古、文明が生まれたか生まれない時からすでに、きわめてまれとはいえ、自然発生的にか、あるいは適切な続行により、クンダリニーの覚醒は起こっていたのである。

順調な経過をたどって健全な覚醒の仕方をする少数例では、生来の神秘家にみられるように、その症状は通常穏やかに、ゆっくり進展する。そうすると、私の場合に顕著にみられたような再生体験という本質的特徴が見逃されてしまったり、あるいはその事実に気づいても、その真因に無知なるために別の原因に帰せられてしまったりする。自然発生的覚醒の場合でも、多くは病的な症状を伴う。その場合、衝撃を受けた当人が狂乱状態で何かわめいたことがたとえ正しくても、錯乱した頭の生みだした無意味なたわごととみなされてしまうであろう。

意志的努力によるクンダリニーの覚醒は、近づきがたい僧院内とか、人里離れた隠者の庵とか、あるいは深い森の中のヨーガ道場といったところで起こるので、それに伴う異常現象は第三者にはうかがい知れないし、まだそれを目撃しえたとしても、それはそうした危険な修法に伴う当然の超自然的症状として扱われ、記録したり、人に伝えたりするほど重大なこととはみなされなかった。あるいは記録されても、きわめて神聖なもので外に絶対漏らしてはならないものと考えられ、その事例が入門した行者以外には明かすことのできない門外不出の秘密にされていることがある。

この科学的批判の時代にあって、これまで詳しく語られたことのなかった奇妙な精神現象を叙述する難しさに苦労しながら、私はともかく、本書に記したようなことをどうしても大事にとっておかなければならない、そうすれば、将来、私と同じように準備訓練期間もなく偶然に蛇の炎を点火してしまう人々の参考になることは間違いないと思ったのである。”(ゴーピ・クリシュナ『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社 p. 111,112)