このところ、ユーチューブで、ドロテア・レシュマンの歌うモーツァルトのアリアに聴き惚れていた。レシュマン/モーツァルトには、まさに、霊が宿っていたのだ。彼女の容姿が、確かに私好みであるのは間違いないにしても、聴く人が聴けば、見る人が見れば、そこに展開する霊的出来事を、見て取り、聴き取るにちがいない。
自然には、神々が住む。そして、人間の営み、人間の生み出すものに、霊が宿る。
自然の一部としての人間の肉体には、神々が住んでいる。つまり、私たちの肉体は、そもそも私たちに由来するのではなく、神々のものなのだ。
神々は、肉体を人間に貸し与え、人間はその肉体を駆使することにより、この地上の世界を生きる。本来自分のものではないから、人間が肉体を使うためには、それに慣れ、いわば習熟する必要がある。
そして、人間は、この地上の世界において、自分たちの周りに広がる森羅万象に対峙する。
森羅万象の内には、神々が住んでいる。
さらに、この地上の世界で、私たちは、人間の他者に出会うのである。
・・・鉱物界、植物界、動物界、そして人間界。
森羅万象と人間の他者/人間界に対処するために、人間はこれまでに、無数の方策/流儀/作法を生み出してきた。これらの方策/流儀/作法は、いずれもミームとしてひとまとめに類型化することができる。
一度出来上がり、因習となったミームにそのまま従っていれば、生きる上で何の苦労もないように思われるが、実際には、予想外の出来事が必ず起こり、既存のミームはもはや役に立たないことが明らかになってくる。
ミームに従うことは、悟性魂/心情魂にとどまることである。悟性魂/心情魂とともに、人間は自らの内的なアストラル界をさまよい続ける。そこは、アーリマン/ルシファーの魔界である。人はその世界の内部で/内部から、内と外へのアストラル投射を繰り返す。もちろん、外だと思い込んでいるのが、実は外ではなく、自らの内なるアストラル界に漂い充満するイメージ/仮象であることに、人は気づかない。
ミームに依存し、執着している限り、気づかないのである。
しかし、病は進行する。気づかないうちに、取り返しのつかないところまで行く恐れがある。
ミームにいつも/全面的に頼り続けていると、もはや自ら思考することを忘れてしまうのだ。
思考しないことは、自らの意志を持たないことを意味する。ミームがすべてを、すでに決めているから、それに従えばよい。何の努力/苦労も要らない。楽である。
このとき同時に、いわばミームが権威になるという事態が発生している。
「どれだけ正しく従っているか」「だれが一番正しく従っているか」「従っていない人間はだれか」「私は彼よりすぐれているか」「彼の劣っているところはどのような点か」「どの女/男が一番きれいか/美しいか」「だれが一番か、だれが二番か、・・・」etc. これらすべての比較めいたことは、ミームが基準になっており、そのミームが絶対視されている以上、それから外れることは考えることができない。まさに硬直した権威主義である。
たしかに、人間が集まり、社会を形成する上で、そのようなミーム権威主義が必要な時代はあっただろう。そして、ミームと同定される、悟性魂/心情魂の働きは、人類史的必然とみなすことはできると思う。
ならば、今はどうなのか。私たちの生きるこの時代/現代は、どういう時代なのか。
そのように問うことが、今、必要だと私は思う。
ミーム権威主義の弊害が、この世界のいたるところに現れており、それによって肉体的/社会的病が広がり、人が傷つき、殺され、(傷つけ合い、殺し合い)、自然も破壊される、そのような事態がもはやあからさまに進行しているからである。
例えば、神はミームではないが、神についての言説、神に関わる物語りのすべては、ミームである。
神についての特定の言説や神様の物語りが絶対視されるや、それから派生して、腐臭を発する心情魂のセンチメンタリズムが蔓延る(はびこる)。
ミームとセンチメンタリズムとは切っても切り離せない。悟性魂/心情魂においては、アストラル投射、すなわちイメージの連続と展開は、オートマチックなのだ。悟性魂/心情魂の内部に、ミームというセンチメンタリズムのためのレールが敷かれている。行先まで決まっているのだ。この路線/レールに乗れば、あそこに着く。まさに、驚くべき予定調和である。そして、新しいものを生み出さないこのミームシステムは、基本的に驚くほど退屈である。
ところが、人間はこのミームシステムの安楽にどっぷりつかって、自分で何かを生み出すことすら考えずに、相変わらずミームに由来するイメージを追いかけ続けているのだ。
別の言い方をすれば、ミームは文脈イメージの網のようなものだとも言える。
ポストモダンは、重層する既存の文脈の位置関係をずらすこと、つまりデコンストラクション/脱構築という手法によって、ミームを相対化しようとしたが、ミームのしがらみは想像以上に強固で、ミームは崩れなかった、と私には見える。
おそらく、いや議論の余地なく、相対化という営み自体、一つのミームなのだ。
”僕は、初めから科学に魅せられていたわけではなかった。大学生の頃は、文芸評論こそが、感動的な英知の賜物(たまもの)だと思っていた時期もあった。ある夜更けのこと、コーヒーをガブガブ飲みながら、こつこつとジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』の解釈に取り組んでいた。すると、晴天の霹靂(へきれき)のごとく、僕は大きな疑問に襲われた。お利口さんたちが、『ユリシーズ』の解釈を巡って、何十年も意見を闘わせてきた。しかし、現代の評論や文学が言わんとすることは、文章なんてものは、もともと「皮肉っぽい」ものだ、という結論だった。意味が幾重にも重なっていて、解釈の決定打など存在しないのだ。『オイディプス王』やダンテの『神曲』、そして聖書さえも、ある意味では、「冗談だよ」(just kidding)なのであり、文字通り解釈してはいけないのだ。意味を巡る論争が解決された例(ためし)はなかった。あるテクストの唯一の真の意味は、そのテクスト自身なのだから。もちろん、この結論は批評にも当てはまる。批評は、止めどもない解釈の繰り返しに過ぎず、どれも、決定打ではなかった。それでも、まだ、みんなが論争を続けていた!何を求めて?批評家たちは、自分の批評が、他の批評よりも、賢明で、面白いことだけを狙っていたのだ。僕には、すべてが無意味に思われてきた。”(ジョン・ホーガン『科学の終焉(おわり)』竹内薫訳 徳間書房 p.16)
「あるテクストの唯一の真の意味は、そのテクスト自身なのだから」と、ホーガンが言うように、例えば、神についての説明を繰り返せば繰り返すほど、そのような説明が多くなればなるほど、わけが分からなくなる。神の姿がどんどんかすんで見えなくなる。つまり、「神の唯一の真の意味は、神自身なのだ」。説明は不要である。
おそらく、詩や音楽ならば、神に近づけるだろう。神が、Du/あなた の姿で現れもするだろう。
さらに言えば、出来事/奇跡と芸術において、神は顕現するだろう。説明は不要である。
また、森羅万象/自然の中に、あなたは、Es/それ としての神を見る/感じるだろう。やはり、説明は要らない。
自然科学が成し遂げたもの、私たちに提示するものは、どう考えても、ミームの一種である。文脈イメージの一種であって、それは森羅万象/自然の実相を明らかにするものではなく、一つの説明/解釈に過ぎない。
Es/それ は、Es/それ としてすでに、神としてすでに、私たちの目に明らかなのである。説明/ミームを重ねれば重ねるほど、わけがわからなくなる。見えなくなるのである。
要するに、ミーム/説明は、アストラル界の事柄でしかないということなのである。
宇宙の実相は、人間の自我/意志が、エーテル界に働きかけなければ、明らかにはならない。
人間の自我/意志が、エーテル界/エーテル体/生命の中に入っていく、この行為こそ、純粋思考に他ならない。
このことを、私たちは、日々の生活の中で、衣食住の必要に駆られて、そう、まさに生活の営みの中で、すでに成しているはずなのだ。
私たち自身の生活の実相を、もう一度見つめ直すべきである。もちろん、だからと言って、自給自足しろとか、ヴィーガンになれとか、ミニマリストやエコロジストになれとか、私は絶対に言わない。
ミームから脱け出よ、と言いたいだけである。
いい加減、神についての説明などやめて、ブラウニング(Robert Browning 1812~1889)のように、歌うことを始めよ、と私は言いたい(だけである)。
” 時は春、
日は朝(あした)、
朝は七時(ななとき)、
片岡に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。”(ブラウニング「春の朝」(はるのあした) 上田敏訳)
さて、ミーム(システム)の中にあって、私たちは、日々、何を見、何を聞いているのか。
端的な言い方をしてみたい。
同じ生活空間に生きているはずなのに、彼は私の見ているものを見ていない。物理的に同じ方角を向いているのに、彼には私の見ているものが見えていない。
例えば、私が今見ている電波時計が、私のすぐそばにいる彼には見えない。きっと彼は、彼の内なるミームに由来する何か他のもの、何らかのイメージを見ているのだ。それが何なのか、私にはすぐには分からない。
ミームから来るイメージが障壁になって、私が今見ている電波時計に、彼は気づかないのだ。
私のアストラル界と彼のアストラル界の間に、ミームの障壁が立ちはだかっている。
単純化した言い方をするならば、異なるミーム同士がディスコミュニケーションの状態に陥っているのである。
このミームのディスコミュニケーションは、まさに魔術的である。見えるものが見えない。見えないものが見える。
このようないわば黙示録的な状況が生じ始めた、その背後で、ミームの弊害でその最たるもの、最も深刻な事態が、確実に進行しているのである。
それは、私たちの多くが、一人になることを極端に怖がって、自分(の力)で考えることを避けるようになってしまったということだ。
同じミームを共有していれば、表向き人間関係は安定して、ストレスにさらされることはないだろう。
だが同時に、そのミームを共有しない人間に対しては、排除/差別/攻撃の圧力が加わる。
ミームの外に出れば、人は一人になる。少なくとも、精神的に共同体の外に出る。すると、あなたは一人になる。
だが、はっきりしていることは、一度ミーム/共同体/共同性の外に出てみなければ、そのミームの本当の姿は見えてこないということである。
この新しい事態に対処するためには、意識魂へと進まなければならない。
意識魂において、純粋思考が成されるのである。高次の自我が目覚めるのだ。意志が、ようやく人間の魂の中に入ってくる。