エーテル的思考としての純粋思考(5) ~ 一つのノスタルジア/メランコリア〈1〉 | 大分アントロポゾフィー研究会

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私は今年、65歳である。12月26日生まれの超かわいいぷくっとした妻(62歳、いやまだ61歳か?)があって、私たちの三人娘はもうみんな結婚した。もちろん言うまでもなく、みんなかわいい。長女と次女は二卵性双生児で、それぞれ二人ずつ子どもがいる。彼女らの子どもたちは、言うまでもないことだが、私の孫にあたる。かわいい。三女は結婚したばかりで、まだ子どもはいない。つまり、私には今の段階で、四人の孫がいるというわけである。私の子どもも孫たちも、立派な人間に育っている。おやばかじじばかではないのである。

さて、そんな私は、鹿児島出身のもともとはヨット専門の高校体育教師(父)と福岡は博多出身の貧しい没落商人の娘(母)を両親として、1959年9月2日、福岡市に生まれた。幼い頃の自分の写真を見ると、にわかせんべいのような顔をしている。母方の祖母にとっては初孫だったので、ものすごくかわいがられたような気がする。私が生まれた頃にはもう、父方の祖父母と母方の祖父は他界していた。

私には一歳半違いの妹がいる。私より背が高く、少なくとも高校までは、私よりずっと成績が良かった。小さい頃は特に、よく兄妹げんかをしていた。それで兄妹仲がこじれてしまいそうになることもあったが、今は・・・私たち兄妹が思春期にさしかかる頃から、私たちの両親の夫婦仲が悪くなって、ちょっと兄妹げんかしている余裕はなくなってしまい、両親のことで悩む兄妹という一種のタッグみたいな感じになってきたのである。

だからと言って、両親の夫婦仲が改善するようなことはなく(離婚にまでは至らなかったが)、母に対する父のいわゆるモラルハラスメントは、結局、3年前に父が肝臓がんで亡くなるまで続いた。そのちょっと前から、母は認知症を発症して、今は施設に入所している。認知症にもいろいろあって、母の場合は、短期記憶の障害はあるが、暴言を吐いたり、疑い深くなったり、やたら攻撃的になったりというようなことはなく、おだやかににこやかに生活している。面会に行くとうれしそうで、元気に会話もできる。

 

高校生のとき、例に漏れず、私も思春期型孤独の真っただ中にあった。学校での成績もかんばしいものではなく、美術と生物以外の教科には、関心が持てず、英語や数学などはさっぱり理解できず、日本史や世界史は何のことやらちんぷんかんぷんで、とにかく学校生活は灰色だった。家に帰れば、両親の不仲で、家庭の雰囲気は最悪。思春期特有の、それ(なに?)に派生する諸々の不都合は、・・・

 

進路を考えなければならない時期になった。私は音楽が好きで、時間があれば、ピアノを弾いて、近所迷惑になっていた。シェーンベルク風の即興演奏が多かった。しかし、ピアノを始めたのは中学校2年生のときで、練習は嫌いだったし、調音は苦手だった。耳コピができなかった。今では、耳コピには何かまやかし/だましのテクニックがあるにちがいないと思っているが・・・。行き詰まりを感じていた。私の指は、人並外れて短かった。両親に感謝しなければならないのは、小学校5年生の時にいとこの男の子の弾くピアノの音に魅了された私に、「ピアノが欲しい」と言ったら、すぐにアップライトピアノを買ってくれたことである。また、高校教師だった父が、学校から音楽の副読本を家に持って帰ってくれた。この本には、重要な作曲家の顔写真とその生涯/特徴を説明した文章が載っており、それで私はいろいろな作曲家に興味をもつことができた。特に、リストにひきつけられ、リストに対する特別な感情/興味は、年を追うごとに深まった。今は状況が変わったが、この当時、リストに対する音楽界の偏見は酷かった。もちろん、私はいつもリストの味方だった。今もそれは変わらない。

油絵が好きだったが、立体表現の写実(立体の写実表現)は苦手だった。第二次世界大戦の頃の戦闘機を横から平面的に描くのはむずかしくなかったが、それを斜め前とか斜め後ろ上とかから見たイメージを描くのは、私には無理だった。

そんな感じだったから、本当は東京芸術大学に行きたかったのだが、音楽も美術も、まず技術的に無理だとわかっていた。しかも、東京芸大は恐ろしく競争率の高い大学だったので、あきらめざるを得ないと判断した。もちろん今は、そんなところに行かなくてよかったと思っている。

音楽や美術の進路はあきらめた。それで、文学部という気持ちになった。文学といっても、いったいどこの国のをやるんだという話になる。また、文学よりも哲学のほうがいいんじゃないか、という気持ちもなくはない。要するに、当然のことながら知的に未熟な私には、きちんとした世界のマップ/思想地図がないのである。もちろん、そのような自分の不備は、今になってようやく客観的に分かるわけだが。

とりあえず、進路決定の期限もあるので、熊本大学の法文学部に行って、ドイツ文学をやろうと決めた。すでにその頃には、自分が、いわゆる神秘主義に惹かれていることを意識するようになっていた。ただし、神秘主義関係の文献は、ほとんど手に入らなかった。また、どこに何があるのか、どうしたら手に入るのか、調べる術(すべ)/知る術はほとんどなかった。まだパソコンもインターネットもない時代である。CDもない。まだLPとカセットテープの時代である。ビデオはVHSかβかという標準規格の問題が争われていた。高校生の私が見つけたのは、思想関係では、学校の図書室にあったデカルト、ヘッセ、ヴィトゲンシュタイン、それに今となってはなぜだか分からないが、コリン・ウィルソンである。彼のデビュー作『アウトサイダー』というタイトルに惹かれたのかもしれない。ともあれ、どこかの誰かに導かれたわけではなく、誰からも助言めいたものは得られず、要するに、運命的に/カルマ的に、彼らに巡り合ったわけだ。不幸中の幸いだと言えよう。邪魔する者もいなかったわけだから。

 

高校のなんかわからん授業中、倫理社会の副読本を勝手にパラパラめくっていて、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という命題に目が止まった。この命題を反芻(はんすう)した。そして、衝撃を受けたのである。「まさに、そのとおりだ。これ以外に真実はない。」と。私にとっては、これこそが純粋思考の原体験である。もちろんその頃には、純粋思考という言葉は知らない。だが、このとき、純粋思考とはどのようなものかを、私は理解したのである。この純粋思考によって、私はひそかに、根源的な自信のようなものを獲得して、生きる力が湧いてきた。この純粋思考は、人を裏切らない。生きる支えになる、支えであり続ける。

 

”・・・詩人のジャン・パウルは、自伝的な文章のなかで次のように述べています。

「いままで誰にも語ったことのない、私の内面で起こった現象を、私はけっして忘れることができません。それは、私が自分自身の自己意識が誕生する瞬間に居あわせた、という現象です。この現象に関して、私は場所と時間まではっきりと告げることができます。ある日の午前中、とても幼い子どもだった私は、家の玄関のドアの前に立ち、左手に積んである薪の山のほうを見ました。そのとき突然、私は私である、という内面的なヴィジョンが、天から降ってくる稲妻のように私をとらえました。そしてそれ以降も、この内面的なヴィジョンは輝きながらずっと持続し続けました。このとき私の自我は初めて、そして永遠に、自分自身を見たのです。これが記憶違いであるとは、とうてい考えられません。なぜなら、覆い隠されたもっとも神聖なもののなかだけで生じた出来事のなかに(この出来事があまりにも新鮮なものであったため、ごくありふれた日常生活の状況が永続的な性格を帯びるようになったのです)それと無関係な話がよけいな事柄を伴って混入することなどはありえなかったからです」”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p. 37,38)

 

熊本での学生生活は、今思えば、それこそ今はやりのミニマリズムの無謀でひとりよがりな実践のようなものだった。ドイツ語ドイツ文学専攻と、言葉の響きはどことなく格好いい感じがするかもしれない。しかし実際は、このコースは学生にはあまり人気がなく、同時期の同学年には、3人の学生しかおらず、もちろんそのうちの一人は、私。もう一人は、家が再洗礼派の牧師さんで、彼自身もその信者。英語がうまい。彼はその後、大学院に進学、留学して、キリスト教神学の教授になった。そしてもう一人は、もともとは国文志望だったが、定員ではじかれて、独文に回されてきた、ある意味きわめて意志の強い精悍な男。ただし、彼はすぐに授業に出なくなった。極めて奥手だった私を、一度だけフーゾクに連れて行ってくれた。このことが独文の先輩や同級生にばれて、「恥を知れ!」と非難された。私も何となく恥じ入ってしまったが、連れて行ってくれた彼のことを悪くは思わなかった。私よりずっと強く良識派に咎められることになってしまった彼に同情した。しかし、良識に真っ向から対抗するには、私はあまりにも非力だった。内心、ゲーテだって、ニーチェだって・・・、などと煮え切らない気持ちはあったが。また別の日に、非良識派/無頼派(?)の彼自身が使用したであろうエロ本(白人女性の裸の写真満載)もくれた。感謝している。その彼は、「出世払い」と称して、私から3万円借りて、もちろんいまだに返してくれない。彼が大学を無事卒業したのかどうか、私は知らない。その後、どうなったかも。しかし、きっと自分で自分の道を切り開き、この地球のどこかで生き抜いているにちがいない。

 

私はとにかくドイツ語の勉強は一応がんばって(ぺらぺら話せるようなことにはならなかったが)、大学卒業後もことあるごとに継続的にドイツ語の勉強は続けた。文学研究で主流だったいわゆる文献学には、まったく興味がわかなかった。ヴィトゲンシュタインがらみで、自己流で言語哲学を追求していた。ムージルに惹かれ、彼の独自性について、卒論を書こうと思った。いわゆる白昼の神秘主義だ。

 

その頃、ルドルフ・シュタイナーの仕事が、日本にも紹介され始めた。熊本市の三章文庫というどちらかと言うと一種マニアックな小さな本屋で、初めてシュタイナーの本を見つけた。高橋巖訳の『神智学』と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』である。神秘主義にはその前から興味があったので、ブラバツキーの神智学協会については聞き及んでいたから、同じ「神智学」という言葉で目に留まったのと、「超感覚的世界の認識」という刺激的なフレーズが、私の心をざわざわとくすぐったのだ。ただ、見開きのシュタイナーの白黒の顔写真には、なんとなく怪しくて禍々しいものを感じて、その日すぐには買って帰る決心がつかなかった。次の日だったか、買ったのだが。ただし、その頃は読んでも、よく分からなかった。私なりに理解の糸口がつかめるようになってきたのは、それからずいぶんたってからで、特にその核心部分に迫ることができるようになったのは、そう、キリスト理解(ゴルゴタの秘蹟の意味)についてだが、それは20世紀末になって、大分アントロポゾフィー研究会の仲間と出会ってからである。

そうは言っても、教育現場で働く身として、また自分の子どもを育てるうえで、シュタイナーの人間観と教育観を知っていることは、ずいぶん力になっていた。それ無しに、仕事を続けることはおそらくできなかっただろうし、家族とともに、世の中のアーリマン/ルシファー的風潮に押し流されずに生き抜くこともできなかったにちがいない。これもやはり、運命でありカルマであると思う。

 

ちょっと時がくだりすぎた。時間をもとにもどそう。

いずれにしても、学生時代から、私がいろいろな面で、むずかしい立場に立っていたことは間違いない。そのことはすでにその頃から、かなり自覚していた。大きな言葉で言えば、非合理主義と合理主義をいかにして結びつけるのか、ということで、それができなければ、非合理主義も合理主義ももろともに破綻する、と私には思われたのである。合理主義は非合理主義を必要とし、非合理主義は合理主義を必要とする。神秘主義と科学とは対立するものではない。また、両者の相互了解を記述するための言語も必要だ(私は、そのための言語には日常言語を用いるべきだと考えている)。これら課題は、いまだ解決の糸口を見出しておらず、今のところ袋小路にぶちあたっているかのようである。

 

大学生の私は、極めて社会性に乏しく、とても実社会で独り立ちできるような状態ではなかった。ぼっちゃんぼっちゃんした暗い孤独な学生だったのである。それで、大学に残ろうと(大学院に進学しようと)思っていた。一年目は、再洗礼派の彼と大学院受験に行き、彼は受かり、私は落ちた。一年間、別府市の実家でぷらぷら何もせずに浪人し、二年目の受験も落ちた。そういうわけで、大分県の教員採用試験に受かって、公立中学校の国語の教員になったが、・・・校内暴力に荒れる中学校に3年間勤務して、それから養護学校に転勤した。60歳で定年退職するまで、大分県各地の養護学校/支援学校で働いた。

在職中、教職員組合の執行委員を何回かやった。教育研究活動や平和運動、そして選挙など、組合活動というものを身をもって経験した。組織の必要性と、どうしてもそこに内在するむずかしさを知った。組織と個人の自由の問題である。特に世紀の転換期ごろから、組織の指図や強制をいやがって、組合を辞める人が増えてきた。組合の冬の時代である。私は辞めなかった。執行委員など組合のお世話係もやる中で、仲間と呼べる人が結構いたし、そんな彼らとのつながりを断つことははばかられた。彼らの人間的魅力は、他では得られないものがあった。そんな人たちを裏切るようなことはできないと思った。もちろん、なかには教条的で魂が硬直しているような人もいないわけではない。まあ、言ってみれば、人生と人間社会の縮図のようなもので、いろんな人がいるわけだ。そのような人間社会の現実を、この地上に生まれてきた以上、経験し知らなければならない。それは宿命だし、やはり人生というものの大きな課題だろう。仏陀だって、似たようなことを言ってるわけだから。

 

28歳で結婚。30歳の時に、建て売りを購入した(今も住んでいる木造家屋である)。その頃、双子の娘はまだ一歳になっていなかった。それから3年後に、末娘が生まれた。