前回、前々回で、自分の生い立ちの素描めいたことを書いたが、なぜそんなことを書き始めたのか、実のところ自分でもよく分からない。自分史めいたことや日々の暮らしの日記めいた内容を書いて載せるのは、これまでできるだけ避けてきたので、自分でも意外な気がしたが、よく考えてみると、要するにこれは、一種のプルガトリオ/煉獄のようなものだろう、と自己了解したのである。
「やっぱり書いておいた方がいいんじゃねーの」「やっぱり運命だよな」「今のこのタイミングじゃないとやっぱり書けないよな」「カルマだよね」などと言い訳めいた言葉が次々に浮かんでくる。もちろん、これらの言葉は言い訳などではない。つまり、私の高次の自我/霊/精神が、「それを成せ」と語っているのだ。
つまり、やはりこれは、どう考えてもカルマ的な事柄であり、その意味において、純粋思考に他ならないのである。
いずれにしても、この地上の世界に誕生し、そこで生きていく以上、人間は、霊界/精神界と物質界の間で、絶妙なバランスをとり続ける必要がある。その要のところに、エーテル体が位置している。
肉体/物質体に生命を賦活すると同時に、それは思考/霊の流れでもある。肉体/物質体に一度流れた思考/霊の流れは、記憶となる。その意味で、思考と記憶とは、別のものではない。記憶となった思考は、死ぬのではない。それは機会あるごとに何度も想起される。思考がよみがえるのである。しかも、よみがえるたびにその思考は何らかの変容を遂げており、常に新しい。そのようなことが可能なのは、その思考がもともとは生命に他ならないからである。
これが、エーテル的思考としての純粋思考の実相/リアリティである。
一方、ミームとしての悟性的思考には、生命が宿っておらず、過去の繰り返しだから、そこから新しいものが成長するということはない。生命がないので、悟性的思考は記憶にはならない。無理におぼえようとすると、その死の力/反生命の力は、エーテル体に破壊的に働く。エーテル体が損傷すると、その死の力は肉体/物質体に及ぶ。
受験勉強で教科書を丸暗記するようなのは、そのいい例である。その時はおぼえているような気がしても、何時間か経つと、もうすべて忘れている。エーテル体と肉体が、拒否反応を呈しているのである。それを無理して何日も徹夜などすると、病気になるのは必至である。
要するに、霊と肉とのバランスのとり方が、間違っているのだ。
ミームに霊性はなく、ミームに依存している限り、あなたのエーテル体は徐々に枯れしぼんでいかざるを得ない。
さて、以上のように、ミームとしての悟性的思考とエーテル的思考としての純粋思考の違いが、明らかになってきたのである。そして、霊/精神と生命との関係も、明らかになってきた。
霊/精神は、エーテル体に浸透し、いわばそれを貫いて、生命として流れている/流動している。そこに、純粋思考/霊的思考が生きている。その有機的形成力は、驚くべきことに、神々に由来するのと同時に、人間の高次の自我に由来する。