エーテル的思考としての純粋思考(3) | 大分アントロポゾフィー研究会

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歴史は、出来事から成る。

出来事は、霊的世界と地上の世界との共同作業、神々の純粋思考と人間の純粋思考とが交わるところに成立する。

だから、霊的な要因が働いていない事柄を、出来事とみなすことはできない。

この地上における人間の営みを、常にそのような視点から見ていく必要がある。

 

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”近世哲学の基礎づけを行ったレナートウス・カルテシウス(デカルト)はこのような確実な地点を見出すことができたという確信をこめて、人間の知識のすべてを、「私は思考する。それ故私は存在する」という命題の上に打ち建てようとした。思考以外の一切の事象は、私の働きかけなしにも存在しており、それが真実なのか目くらましや夢なのかを私は知ることができない。私が無条件的に確実だと知り得るのはただ私の思考だけである。なぜなら思考だけは、私がそれを確かな存在にしているのだから。思考そのものは思いもよらぬところから生み出されたのかもしれない。神から生じたのか、あるいは全然別なところから生じたのかも分らない。しかし私の思考だけは私自身がそれを生み出している。このことだけは確信できる。カルテシウスは出発点としてこの命題にこのこと以外の意味を与えることを是認しなかった。「私は考える」という言葉で、彼は宇宙内容の一つである私を、私の最も固有な活動としての思考活動において理解するということだけを主張した。この命題の後半の部分である「それ故に私は存在する」が何を意味するのかについては、多くの議論が闘わされてきた。しかしこの部分はただ一つの条件の下においてのみ意味を持つことができる。或る事柄についての最も単純な言い方は、「それはある」、「それは存在する」である。この言い方は、私の体験領域の中に入ってくるどんなものの場合にも、すぐにはできない。存在するものがいかなる意味で存在するのかをさらに規定していこうとすれば、どんな対象も別の対象との関係において問題にされなければならなくなる。一つの体験内容だけでは、一連の知覚内容かもしれないし、夢や幻覚なのかもしれない。要するに、いかなる意味で存在しているのかについては何も言うことができない。私は出来事そのものだけからでは、存在のそのような意味を取り出すことができない。他のものとの関係を考察するときにのみ、そうすることができる。とはいえ、そうしたとしても、それだけではまだ、或るものと他のものとの関係を知ること以上に出ることはできない。私が確かな基礎の上に立とうとすれば、存在の意味をその存在そのものから汲み取れるような対象が見つけ出されねばならない。しかしそのような対象は、思考する私自身以外にはない。なぜなら思考する私自身だけが、私の存在に思考活動というそれ自身に基づく特定の内容を与えることができるからである。そこで私はここから出発して次のような問いを立てることができる。-他の事物もまた思考と同じ意味で存在しているのか、それとも別な意味で存在しているのか。”(ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学 - 或る近代世界観の根本思想 自然科学の方法による魂の観察成果』高橋巖訳 筑摩書房 p. 59~61)

 

デカルトの「私は思考する。それ故私は存在する」は、他ならぬ純粋思考であり、デカルトは、それを自らの魂の内に見た/観察したのである。

「それはある」「それは存在する」と同質の根源語として、私たちは、「Ich/わたし」「Du/あなた」「Es/それ」を見出す。

私は、思考存在としての自分自身に気づく。その思考存在は、純粋思考を成すことができ、そのような存在を、自らの内に発見したときに、「Ich/わたし」という根源語が発せられる。

その「Ich/わたし」が、純粋思考を成し、だれか人間の他者を、自分と同様の思考存在と了解したときに、わたしは、その人を、「Du/あなた」という根源語で呼ぶのである。

 

さて、思考存在という言葉自体に、すでに「私は思考する。それ故私は存在する」という内容が表されているのである。

「私は思考し、存在する」。そして、「私は存在し、思考する」。

さらに、「あなたは存在し、思考する」。そして、「あなたは思考し、存在する」。

私もあなたも、ともに思考存在である。純粋思考を成すことができる存在なのである。

この自己了解と相互了解が、私たち人間存在の共同性の基盤となる。

 

「Ich/わたし」と「Du/あなた」は、人間の純粋思考を成す。

それに対して、私たち自身の肉体/物質体も含めて、森羅万象/自然/外的宇宙である「Es/それ」は、神々の純粋思考によって成り立っている。

 

思考体/思考存在としての「Ich/わたし」と、同質の思考体/思考存在である「Du/あなた」とが出会うと、お互いの成す純粋思考が、共振し合う。

さらに、人間存在としての「Ich/わたし」が、神々の創造物としての自然/森羅万象である「Es/それ」に対峙することにより、わたしの成す純粋思考と自然に内在する純粋思考とが、共振/共鳴し、人間と自然の共同作業を経た新たなる何ものかが、生まれる。

このような「Ich/わたし」「Du/あなた」「Es/それ」の純粋思考を媒介にした交感/交流/結びつきの営みが、根源的な意味における出来事というものを生起させる。この営みは、すぐれて芸術的な営みなのである。