エーテル的思考としての純粋思考(2) | 大分アントロポゾフィー研究会

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私たちの生/生活の営みは、生/死をめぐって、営まれる。

私たちの生/生活の営みの中心に、生と死がある。

善と悪 etc. ・・・それらすべての倫理的な事柄の根源に、生と死がある。

生と死とが、人間の生に陰影をもたらし、そこに光が差し、影が生まれる。光と闇が、交錯する。

 

人間の生と死の領界、それはエーテル界/エーテル体である。

人間の生き死に(いきしに)を、エーテル体を介して、彼がつかさどる。

彼、死の天使が。

 

”私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、私は目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、今まであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、決して涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。

いまあなたが足を踏み入れようとしている領域において、あなたは高次の存在たちと出会います。この領域に関与することによって、あなたは無上の幸福感を味わうことになります。しかしあなたがこの世界で最初に出会うのは私(すなわちあなた自身が生み出した存在としての私)でなくてはなりません。いままでは、私はあなた自身の生の営みをとおして存在していました。しかしいま私は、あなたをとおして自分自身の存在に目覚めました。そして私は、未来の行為の目に見える基準として(場合によっては、あなたをたえず叱責する存在として)、あなたの前に立っています。あなたは私を生み出すことができました。しかしあなたは同時に、私を作り変える義務も引き受けたのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 P.231,232)”

 

純粋思考は、エーテル体の動き/流れとみなすことができる。

つまり、純粋思考を成すことによって、エーテル体の流れが変化するのである。

 

人の生き死にや善悪、生き方や生活態度に関わる思考を成す。

その思考に集中し、その思考を純粋思考にまで高める。

思考が純粋思考にまで高まったとき、エーテル体の中に変化が生まれる。

エーテル体の動きと流れが変わるのだ。あたかも魂の内に霊的な光が点された(ともされた)かのように。

ある思考内容が、別の思考内容と、それまでは思いもかけなかったしかたで結びつく。

つまり、生死の際では、予想外/想定外の出来事が起こるのである。

 

わたしは驚いて、つぶやく。

「こんなところに、こんなものがあるなんて・・・これを、わたしは探していたんだ。」

彼は、言う。

「それは、前からずっとそこにあったんだよ。君が、気づいていなかっただけさ。」

わたしは、言葉を失う。

「・・・」

・・・さて、なぜわたしには、それまでそれが見えなかったのだろう。

言うまでもなく、物理的には、それはそこにずっとあったのである。しかし、わたしにはそれが見えなかった。

 

驚くべきことに、人の生き死にや善悪、つまり人間の生活のすべての事柄について、これが言えるのだ。

わたしたちには、見えないのだ。そこにあるものが、見えないのだ。

もっと言えば、わたしたちは、そこにはないものを見てしまう。あろうことか、他の人も、それを、そこにはないものを、見てしまう。

このようなわたしたちの生活のあり方を変えるためには、純粋思考を成す以外に方法がない。

 

純粋思考をポジだとすれば、そのネガがある。

純粋思考が姿を消すと、それは現れる。

それとともに、人は闇の世界へと入ってゆく。

それは、まさにエーテル界の必然。生のとなりに死が・・・

 

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いずれにしても、わたしの純粋思考と他者の純粋思考とが、出会い、共振し始めて、わたしの魂の空間に共鳴する。

他者の純粋思考は、神々の純粋思考として、自然/森羅万象の中に、ある。

それは、鉱物界にあり、植物界にあり、動物界にある。それは、私たちの肉体/物質体の中に生きている。

人間の他者の純粋思考は、まさに人間の思考の産物として、思想の中に、文学の中に、絵画の中に、彫刻の中に、建築の中に、音楽の中に、そうした人間による創造物としての芸術の中に、生きている。

 

いずれにしても、人間は、他者による純粋思考としての、神々の純粋思考、そして人間の他者による純粋思考に、遭遇し、それを自らの純粋思考によって理解/了解して、そうした他者による純粋思考と共振することにより、霊的な感情/畏怖(いふ)にとらえられ、思わず涙を流すのである。

言うまでもないが、ここにはセンチメンタリズムのかけらもない。

突きつめた言い方をするならば、この高貴な感情は、愛/アガペー に他ならないのである。