”・・・少しずつ成熟を遂げるうちに、学徒は、自分自身のエーテル体の流れをとおして本来の高次の人生と結びついた要素を制御し、そのことによって物質体を高次の意味において自由にすることができるようになるのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 179)
*肉体/物質体/(エーテル体) - アストラル体(感覚魂 - 悟性魂/心情魂 - 意識魂) - 自我/霊/精神
悟性魂/心情魂こそは、言語的イメージと文脈イメージから成るミームである。
感覚魂は、感覚的イメージの供給主体であり、悟性魂/心情魂は、感覚魂がもたらす感覚イメージによって、ミームとしての自らの身体性/具体性を獲得する。
ただし、その身体性/具体性は、あくまでもフィクション/虚構であり、いわば Es/それ の鏡像/写しでしかない。
しかも、その鏡は歪んで(ゆがんで)おり、Es/それ/自然の忠実な写しではない。
主観である。当然のことだが。
そのような主観の絶対性を突きつめたところに、その虚構のぬぐいがたい相対性が明らかになり、そして、意識魂が現れる。
人は、悟性魂/心情魂が、どこまで行っても、その主観性の牢獄から脱け出ることができないことに気づく。
すべての言語的イメージと文脈イメージの絶望的なまでの相対性に気づくのである。
しかも、ミームは、いわばその骨の髄まで、アーリマン/ルシファーに浸潤されている。
そのような気づきに至った人間の魂の空間に、意識魂が誕生する。
ミームの恐るべき虚構と主観性の迷宮から、抜け出すのだ。
その囚われから脱し、言語的イメージと文脈イメージへの依存を断ち切ろうと決意する。
意識魂は、そのようにして出現する。
それは、意志と勇気の現れであり、その表明である。
そのように決意することのできる勇気を、人はもっているのか。
もっているのである。
あなた/Du は、もっている。
わたし/Ich も、もっている。
そして、もちろん、それ/Es には、・・・そう、彼らは、神々から来たのだから。
人間である あなた/Du と わたし/Ich は、悟性魂/心情魂/ミームの虚構性/相対性に気づく過程において、虚構ではないもの、相対的ではないものを見出しているはずだ。
それは、思考体としての霊/精神であり、あなた/Du 自身であり、それは、同時に、わたし/Ich に他ならない。
そのようにして、あなたは、他者の秘儀の門をくぐり、本来のあなた自身を見出すことになる。
アーリマン/ルシファーの魔境を通り抜け、あなたの本来の故郷である霊/精神たちの国へと至るのである。
エーテル/生命の領域、エーテル体を経由して、それ/Es の背後に、物質界の背後に回り込む。
つまり、そこは、わたしたちがこの地上に生まれる前にいたところ、そして、わたしたちがこの地上の生を去ってから帰っていくところだ。
この地上の生を生きる間(あいだ)、通常、わたしたちは、誕生前にいて、そして死後おもむく、この世界のことを、まるで知らないかのように生きる。
しかし、霊界/精神界において、思考体である霊たちは、他ならぬ純粋思考によって、思考し、交感し合う。
つまり、霊的思考である純粋思考を、わたしたちは、霊たちの国にあるときには、成しており、この地上の生活を営むに際しても、エーテル体を介して、それを成すことができるのである。
つまり、この地上の世界を生きつつ、エーテル的思考である純粋思考を成すとは、霊界/精神界を想起する(思い出す)ことに他ならないのである。
そのようにして、わたしたちは、Es/それ/物質界 の背後に広がっている霊界/精神界の霊視に至る。
思考体である私の自我の成す純粋思考が、神々の思考体としての自然を構成している神々の純粋思考と共鳴/共振するのである。
その出来事が、・・・