その人は 語りかける 愛/アガペーの言葉を | 大分アントロポゾフィー研究会

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誰かから 純粋思考の言葉が 聞こえてくる。

それは まさに 天使の ささやき、 愛/アガペーの言葉だ。

 

通常、 わたしたちの魂は 日々の喧噪/騒音のなかに あるので、

天使たちの かすかな ささやきは わたしたちの 耳まで とどかない。

そして わたしたちは 本当には 望んでもいない ものごとを 追い求める。

 

わたしたちの 魂の 内と外とに 本来の思考の影のように イメージ/仮象が 充満し 漂っている。

わたしたちは よく考えもしないで そうしたイメージ/仮象に 手を伸ばし、

なんら 躊躇もせずに つかみとる。

そうだ。 そのようにして わたしたちは 自らの魂の 罠(わな)に はまったのだ。

 

私たちの魂には わたしたち自身ではない 何者かが 潜んでいる。

 

そもそも 霊/精神が 体(たい)と つながりを もとうとするとき、

そのときに あたかも 幻影のように 姿を現すものこそ 魂に他ならないのである。

つまり 魂は そこにあって そこにはないもの。

無いことによって 在るように 現れるもの。

まさに 魔界である。 魔術の世界である。

 

霊/精神が 地上の世界に 働きかけるために 体を 持とうとするとき、

その体を 霊/精神が 知る/認知するために、

霊/精神は イメージを 必要とする。

霊/精神が 自らの思考体としてのありようを 了解していないとき。

その了解がないことで 純粋思考が 働かないとき。

純粋思考が 働かないことによって 体と地上の世界を 統べる 神々の純粋思考と 共振できないとき。

そのような場合、 わたしたちは イメージ/仮象を 頼るしかないのである。 

 

イメージ/仮象の 魔界である 魂に、 ルシファーが 棲む(すむ)。

イメージ/仮象の 魔の世界、人間の魂の中に 鉱物界から 死の国の王 アーリマンが 這い上がってくる。

だから、 わたしたちの 魂の中には ルシファーとアーリマンが 棲みついており、

わたしたちは その魔術に 眼が眩んで わたしたちの思考は 麻痺しているのだ。

 

わたしたちは 影のような思考とともに イメージ/仮象に どっぷりと つかり、

それに 囚われ、 それに 依存している。

わたしたちは それとともに 自らの意志を 失っていることに 気づかない。

そして 安易な センチメンタリズムの 泥濘(でいねい/ぬかるみ)に はまりこむ。

だから そうなってくると 心/感情は 気高さ(けだかさ)を 失って、 腐臭を放つに 至る。

わたしたちの魂は もはや 霊性を 失うのだ。

 

霊性を欠いた魂は 何ら思考することなく 魂の空間に浮遊する ルシファー/アーリマン由来の 種々のイメージに

反射的に 反応し すぐに 「これだ!」と 臆面(おくめん)もなく とびつく。 そこに 何の理由もない。 

にわか仕立ての 理由づけは 文脈イメージ/ミームが 担う。

その発動は 瞬時であり、 一旦(いったん) 文脈イメージ/ミームが 起動すると、 もう 後戻りは しない。

わたしたちは 文脈イメージ/ミームの そのような瞬発力/即時性と 機械性/自動性に 魅了されている。

しかも 文脈イメージ/ミームは 写し/複製/コピーが 容易である という 特徴がある。

 

ルシファー/アーリマン由来の イメージの魔術の 特徴は ここにある。

イメージは わかりやすい。 なぜなら それは すでに そこに あるから。

あなたの魂の 内外(うちそと)に それは あたかも 所与(しょよ)のように 浮遊し 充満しているのだ。

それらの イメージたちは あなたが 作り出したのではない。

内なる 他者としての アーリマン/ルシファーが、 それらが あたかも 所与であるかのように あなたに 思わせているのだ。

あなたは 思考体としての 霊/精神を 見失っているので、 アーリマン/ルシファーの 生み出す 諸々の イメージの これ見よがしな 具体性/身体性に 惑わされ、 それらに 囚われ、 それらに 執着し、 依存するようになる。

文脈イメージ/ミームが 本来なら機能すべき (純粋)思考に 取って代わっているので、 思考は もはや 姿を 現わさない。

あなたは 骨の折れる 純粋思考などに もう 用はない と 決め込む。

 

そのようにして あなたの魂から そして あなたの体から 霊的生命が 失われてゆく。 生命霊が 消えてゆく。

 

霊/精神は 霊の 言葉を もっている。

体/自然は  自然の 言葉を もっている。

 

霊/精神の用いる霊の言葉は、人間の言葉でもある。

体/自然の発する自然の言葉は、人間の言葉ではなく、神々の言葉である。

人間の言葉も、神々の言葉も、いずれも純粋思考の言葉である。

人間の言葉/純粋思考と神々の言葉/純粋思考が、人間の魂という霊的舞台/宇宙空間において、共鳴する/響き合う。

そもそも人間の魂というものは、そのような場所、そのための場所なのだ。

そこで、霊たちが、共鳴/共振/交感/交歓し合う。

 

Ich/わたし が Du/あなた に出会うとき、そこに、新しい霊的宇宙空間が、生み出される。

魂の空間が、まさに霊的に更新され、そこに新しい霊的なるものが、新しい霊的思考体が、姿を現すのである。

そして、新たに現れた霊的思考体/純粋思考は、体(たい)を希求(ききゅう)するのである。

 

”このエリアの魂は、同時に旧約聖書の民族の魂でもあるのであるが、それは洗礼者ヨハネの中に現れて、ヨハネの中に生き続ける。後に洗礼者ヨハネは捕えられ、ヘロデによって首をはねられるが、その時にはこの魂には一体何が生じるのであろうか。・・・この魂は自立し、肉体を離れ、オーラとなって働き続け、このオーラの中に、キリスト・イエスが現れるのである。ではそれからエリアの魂、すなわち洗礼者ヨハネの魂はどこへ行くのであろうか。このことはマルコ伝にはっきりと描かれている。洗礼者ヨハネの魂、すなわちエリアの魂は、十二使徒の集団魂となり、十二使徒の中に生き続けるのである。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『マルコ伝』新田義之監修 市村温司訳 人智学出版社 p. 162,163)