”オースティンは、1982年に体験したような見性(けんしょう)の境地には、二度と達しなかった。彼は、「ずっと続く悟りの段階」-つまり、完全に永久的な自己超越-に達するには、多くの見性の体験が必要で、しかも、その知覚形態を日常の生活に完全に統合する必要もあると考えている。オースティンは、自分が知りあった誰もが-オースティンの知人のなかで、もっとも賢いと思われる、日本での最初の禅の師匠でさえも-この仏陀のような完璧なレベルに達していたかどうか、疑問に思っている。
しかし、彼は、地球上には、きわめてわずかだが、完全な悟りに達した人々がいるかもしれないと信じている。
「そうした人たちは、公に出たり、意識についてのセミナーを開いたり、多くの本を出版したり、南カリフォルニア一帯に研修センターを設けようとはしないでしょう。彼らは人目につかない人間でいたいのです」
オースティンは、宙に浮いたままの、無言の疑問を感じ取って、こうつけ加えた。
「誤解なきよう。わたしは、自分自身を、禅の瞑想の道に励む一人の研鑽者にすぎないと思っておりますし、その目は、多くの体験と、霊感を与える人たちとの触れ合いによって開かれたのです」”(ジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』竹内薫訳 徳間書店 p. 189,190)
”瞑想生活に着手した人は、現代の機械の影響が、人間の精神・心魂に入り込んでいることに気づきます。それが人間のなかで多くのものを殺していることに気づきます。この破壊によって、内的な力を本当に発展させるのが特別困難になったことに、その人は気づきます。その内的な力によって、人間は正規の高次の神々と結び付くのです。
瞑想生活を始めた人が、現代の鉄道列車や蒸気船の中で瞑想して、神霊世界への没入を試みるとしましょう。そうすると、神霊世界へと上昇する透視力を自分のなかで発展させようと労苦するのですが、アーリマンの世界が、神霊世界への帰依に逆らうものを人間のなかに詰め込むのに気づきます。
この戦いは、ものすごいものです。これはエーテル体の中で体験される、消耗し、押し潰されるような、内的な戦いです。瞑想的な生活をしていない者も、この戦いを体験します。両者の違いは、瞑想的な生活をしている者は、これを意識的に認識するという点です。だれもがこの戦いを体験し、その作用を体験します。
「現代生活のなかへ技術がもたらしたものに反抗しなければならない」と言うのは、最も誤ったことです。「アーリマンに警戒しなければならない。現代生活から引退しなくてはならない」と言うのは、最も間違ったことです。それは、ある意味で、精神的な臆病を意味します。
心魂を弱めたり、現代の生活から隠遁するのではなく、心魂の力を強くして、現代生活に耐えられるようにするのが、本当の救済手段です。現代の生活に対する勇敢な行為が、世界のカルマによって必要とされるものです。ですから本当の精神科学は、前もって、多かれ少なかれ集中的な努力を人間の心魂に要求します。”(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの美しい生活』西川隆範訳 風濤社 p. 28,29)
「霊感を与える人たちとの触れ合い」、人間の他者/あなた との出会いと触れ合いが、純粋思考を触発(しょくはつ)/惹起(じゃっき)する。
そして、人間のエーテル体の中で展開する、アーリマン/死との戦いに向き合うのは、純粋思考を成す人間の自我だ。
私たちは、そのようにして、現代生活を生き抜く。現代生活を生き抜くことができれば、それはそのまま、霊と肉との統合/調和である。
オースティンが、「『ずっと続く悟りの段階』-つまり、完全に永久的な自己超越-に達するには、多くの見性の体験が必要で、しかも、その知覚形態を日常の生活に完全に統合する必要もあると考えている。」と語ったものが、実現することになる。
通常、地上的な自我/魂は、高次の自我の顕れ(あらわれ)である純粋思考のスピードについていけない/追いつけない。
地上的な自我/低次の自我と、霊的な自我/高次の自我の分裂という事態が、起こってくる。
すると、そのような、自我の分裂という、いわゆるスピリチュアル・エマージェンシーの中にある魂は、一定の期間、地上の生活をおくることが困難になるのは避けがたい。
低次の自我/因習/ミームは、アーリマン/ルシファーに浸潤された人間の魂の謂いである。同時にそれは、現代生活、つまり、私たちが日々、時々刻々成している私たちの生活に他ならない。
ここが、戦いの場である。
シュタイナーは、「この戦いは、ものすごいものです。これはエーテル体の中で体験される、消耗し、押し潰されるような、内的な戦いです。」と、述べている。
「エーテル体の中で体験される」ということは、この戦いが、まさしく生死にかかわることを意味している。
「だれもがこの戦いを体験し、その作用を体験します。」と、シュタイナーは言う。この戦い、つまり私たちの営む現代生活、アーリマンの刻印を帯びたこの現代生活によって、私たちの体(たい)と魂とは、傷つき、病み、生と死の際(きわ)まで追いつめられる。
さて、純粋思考によって、私たちは、霊的危機/スピリチュアル・エマージェンシーに至る。これは、低次の自我/因習/ミームに、否(いな)/non を宣言することであり、いわゆる現代生活を、否定あるいは相対化することを意味する。つまり、私たちは、地上的には死ぬのである。
一方で、アーリマン的な現代生活によって、私たちは、すでに、死に瀕している。
しかし、私たちが、霊的に死ぬということは、あり得ない。
肉体/物質体が、何らかの不調により、アクシデントにより、破壊されて、死ぬことはあり得る。
肉体/物質体が、もはや地上での生活を営めないほどに、その有機的組織性を喪失するということはある。病気によって、事故によって、etc.
また、私たちは、この地上生において、自らの魂の死を経験することはあり得る。
魂の死は、アーリマン性の過度の浸潤によって、もたらされる。魂が、アーリマン/死によって、浸潤され、支配され、・・・その柔軟さを失い、硬直し/硬化し、・・・
そのとき私たちが、自らの魂の空間に見るものは、生命をもたない種々のイメージの戯れ(たわむれ)であり、私たちは、その仮象の迷宮/牢獄に囚われ、煮詰まり(につまり)、そこから逃れる術をもはや知らないのである。
このような状態の魂を、死んだ魂と呼ぶことができる。
人は、自らの魂を、あたかも Es/それ/もの であるかのごとく、まさに唯物論的に扱い、魂を荒廃させてゆく。
自らの魂を、荒廃させ、虚無的/ニヒリスティックになった人は、他者をも Es/それ/もの として扱うようになる。
そのようにして、人は、自らの魂を殺すだけでなく、他者の魂までも殺すのだ。
依存と疎外という、まさに現代的文脈、そのようなきわめて不健康な文脈イメージが、蔓延(まんえん)する/している。
いずれにしても、本来の人間、つまり霊/精神は、霊的には死なないから、魂がそのように荒廃し、死んだからと言って、・・・いや、だからこそ、あなたは、その暗闇と深淵において、霊/精神としてのあなた自身を見出さなければならない。
あなたが、イメージ体/因習/ミームではないことに気づき、霊/精神/思考体であることを(再)発見しなければならない。
そして、この発見/自己認識が契機となって、本来の思考/純粋思考が始まる。高次の自我が、魂の中に生き始める。
そのとき、この本来の思考/純粋思考が、意志的な思考であることが、明らかになる。つまり、本来の自我/高次の自我が、純粋思考を成すのであり、そこには意志/自我が働いていることが、明らかになるのである。
純粋思考においては、思考と意志を切り離すことができない。思考と意志とが一体になっているのである。
意志はキリスト、思考はミカエル、そして感情/魂は、地上を生きる人間である。
意志においては、強さが要(かなめ)となる。善悪や正否は、関係がない。
意志は、すでに自我であり、霊/精神そのものである。そして、その意志が、思考の姿をとるのであって、思考を介して意志が生み出されるのではない。
思考に姿を変えた/変容した意志を、思考体と呼ぶことができる。その思考体が、神々の思考体としての肉体/物質体に入り込む。
人間の自我である人間の思考体は、肉体/物質体をもたない。神々の思考体としての肉体/物質体を、地上生を生きる間、いわば借りるのである。
”・・・いかなる場合においても、内なるものはすべて、外にあるものをとおして姿を現さなくてはならないのです。画家の頭のなかだけに存在しているイメージが、実際に姿を現しているとはいえないのと同じように、目に見える形で表現されない限りは、神秘学の訓練は本当の意味で存在することはできないのです。内にあるものは外にあるものをとおして表現されなくてはならない・・・。確かに、「重要なのは、ある事柄に含まれている霊的な要素であり、形式ではない」ということは真実です。しかし霊がなければ形式は成立しないのと同じように、形式を生み出さない限り、霊は活動することができないのです。
私がこれまで解説してきた条件をとおして、学徒は、神秘学の訓練においてこの先さらに要求される事柄に従うために必要な強さを身につけます。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 125)