思考の道をゆく -9- ~ 肉体の内に働く純粋思考 | 大分アントロポゾフィー研究会

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イメージ体の囚われから自由になって

人は、自らの肉体/物質体の内に働く純粋思考へと至る。

 

ジョギングでの、セカンドウィンド

ウォーキングでの、マインドフルネス

あらゆるジャンルのスポーツでの、メディテーション

そして、セックスでのオーガズム

これらはすべて、純粋思考である。

 

アーリマン/ルシファー幻想であるイメージ体から自由になって

すべてのアストラル投射から自由になって

人は、肉体/物質体の純粋思考に至る。

 

 

 

この地上の生活動作のすべてが、純粋思考から来れば、

いわゆる事故/アクシデントは、減らせる。

 

イメージ体が、力み(りきみ)や作為(さくい)を生み出し、

人間の動作と行為から、自然さ/なめらかさ/しなやかさを奪う。

そのようないわば、無理強いと肉体の酷使の蓄積から、

やがて、種々の病気が、起こってくる。

骨格が変形し、筋肉にしこりが生まれ、血液循環のリズムが不規則になる。

喘息(ぜんそく)になる。免疫系(めんえき)が弱くなる。便秘になる。etc.

 

ほとんどすべての病気が、いわゆる自律神経失調症(じりつしんけいしっちょうしょう)/心身症(しんしんしょう)の何らかのプロセスとして、とらえることができる。

ただし、自律神経失調症/心身症共に、十分に解明されておらず、役に立つ記述/テキストは、いまだ存在しない。

そもそも、人間の肉体/物質体自体が、実のところ謎のままに留まっているのだから、無理もあるまい。

 

つまり、自分の肉体/物質体については、個体差/人による違いがあるということ以前に、

人間の肉体/物質体、いやむしろ、人間を構成する/形成する体(たい)すべての、まさに普遍的な謎に、自ら対峙(たいじ)して、

自分で純粋思考を成し、自分で調整していく、つまり自分で ”ととのえていく” 必要があるということなのだ。

この地上の生活を営む上で、これ以上に大切なことはないと言ってよい。

自分の生活を人任せにせず、それにしっかりと向き合い、責任を持つということである。

 

・・・ある秋の日の家族の会話

私の娘(35歳 既婚 7歳の双子の娘あり)

「男の乳首って、いったい何のために、あるんかなあ?」

私(65歳 既婚 三娘あり)

「(んんんっ、なかなかいい質問だ。さすが、私の娘・・・)うーん、それは、やっぱり、感じるためだろうね♡」

私の娘

「ふーん・・・」

 

 

未熟なカップルにありがちな、共依存(きょういぞん)の関係ではなく、

霊界/精神界における霊/Geist たちの関係性、つまり「わたし」-「あなた」の関係性が成立すると、

あなたは、宇宙と調和する。

「わたし」-「あなた」の関係性とは、言葉を換えれば、霊的な関係性、思考体同士の結びつきである。

「わたし」という高次の自我/思考体が、「あなた」という高次の自我/思考体を見出すのである。

 

”・・・これらのことを話したのは、わたし(キリスト・イエス)の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」”(「ヨハネによる福音書」第15章)

 

いまだそれぞれの高次の自我を成長させるに至っていない「あなたがた」(キリスト・イエスの弟子たち、そして人類の個々人)は、自分たちの力のみによって、「わたし」(キリスト・イエス)に出会うことはできない。

なぜならば、高次の自我に出会うことができるのは、高次の自我だけであるから。霊/精神が、霊/精神に出会うのである。

高次の自我に至っていない人間の自我(低次の自我と言うことができる)は、霊/精神を見出す目を持っていないのである。

 

だから、キリスト・イエスは言う。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」

 

「わたしの名」とキリスト・イエスが言うのは、キリスト・イエスの高次の自我であり、聖霊である。

キリスト・イエスの「喜び」、聖霊降臨による一種の熱狂/インスージアズム/enthusiasm が、弟子たちの魂の内に起こる。

キリスト・イエスという、いわば最高の高次の自我との出会いによって、弟子たちの自我が、その成長を触発(しょくはつ)されるのである。

 

人間の自我は、高次の自我へと、少しずつ成長してゆく。地上的な自我から、霊的な自我へと向かってゆく。

この自我の成長には、グラデーションがある。成長段階があるのだ。

自我が、霊/精神に近づけば近づくほど、他の霊/精神に気づくようになる。

この気づき/感性がなければ、霊的存在としての自我が、他の霊的存在としての自我に出会う機会がなくなる。

この霊的存在としての自我同士の出会いこそ、聖霊降臨の本質である。

出会いが出会いを生み出し、それはやがて霊/精神のコミュニオンとなる。

 

キリスト・イエスは言う。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

 

弟子たちは、それぞれ高次の自我に向けて、自らの自我を成長させる道を見出した。キリストの道、そして純粋思考の道である。この道を行かねばならない。そして、自らの魂の内に、霊的な自我を生み出さなければならない。

そして、いわば霊の果実が、この地上の世界を生きる人間の魂の中に根づく。

 

「わたしの名」、キリスト・イエスの高次の自我であり、「わたしの名によって」とは、キリストの高次の自我にならって、ということ。私たちは、キリストに倣う(ならう)ことができる。

「父」とは霊界/精神界である。「父に願うものは何でも与えられる」とは、霊界/精神界のことがらが、この地上の世界においても、いわば成就する。霊界/精神界が、地上に降りてくるということである。

 

そして、キリストの掟が、この世を統べる(すべる)。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。」

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 

”主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

主なる神は言われた。

「人が独り(ひとり)でいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。”(「創世記」第2章)

 

「善悪の知識の木」とは、その実を食べると、人間の思考が自動化し、人間からその主体性を奪う、神的なる、なにものかである。つまり、人間の自我の成長が止まり、人間はそれによって霊的に死ぬことになる。

そこで、神は言う。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

「助ける者」とは、人間に自ら考えるきっかけ与える者、さらにはいっしょに住み、語り合うことを通じて、共に思考する者である。

そこで、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。」

人は、そうした自然の生き物たちを見て、彼らを名付ける。人は、彼らの内に自分と類似するものを見出し、そのことによって、自らの体(たい)の内なる言葉/純粋思考を引き出すことができた。そもそも言葉とは、そのようにして生まれてきたものなのだ。神的であると同時に、人間的であり、もともとは思考と切り離すことはできなかった。純粋思考とは、言葉であると同時に思考なのである。言うまでもなく、それはロゴスである。

しかし、「(人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、)自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」

人は、自然の生き物たちに、自分との類似性を感じ、彼らを名付けることはできたが、彼らは人間の言葉を持たなかったが故に、人は彼らと語り合うことができなかった。

そこで、神は「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」

つまり、単なる類似性ではなく、他ならぬ人間(の体)から造られた別の人間、人間の他者が現れたのである。類似性ではなく、共通性が必要なのだ。霊/体としての共通性である。

 

人間は、人間の他者と出会い、その共通言語によって語り合い、思考を紡ぐ(つむぐ)ことができる。まさに神が、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言ったように。

男と女の出会いは、まさに根源的な出会い。出会いというものの原形なのである。

 

「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

「父母を離れる」とは、人間が神と自然とから離れること、つまり霊的な存在としての主体性を持つようになることを意味する。

「女と結ばれ、一人は一体となる」とは、人が人間の他者と出会い、新しい結びつき/コミュニオンを形成するようになることを意味する。

 

驚くべきことに、すでに創世記において、いまだ実現しているとは言い難い人間の未来、その原型が描かれているというわけである。