思考の道をゆく -6- ~ 思考存在としての人間 | 大分アントロポゾフィー研究会

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”・・・なぜなら人間とは思考存在だからです。・・・思考の根底にあるのは生き生きとした力です。認識する人間にとって、思考とは、霊のなかで直観的にとらえられる事象が直接姿を現したものにほかなりません。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p.183)

 

1 人間とは ”思考存在” であり、思考は人間に ”永遠の命” を送り込む。

 

2 (純粋)思考は、霊/精神の直接的な現れであり、 ”ロゴス/聖霊” とも呼ぶことができる。

 

3 純粋思考は、思考の本来のあり方であり、思考が純粋思考としての本来の姿を現す(取り戻す)に至らないとき、思考には生命が宿らず、思考は人間に ”永遠の命” を送り込むことができない。

3-1 そのとき、アーリマン/ルシファー由来のまがいものの思考/影の思考である文脈イメージ/イメージ体が、人間の魂を支配するようになり、低次の自我を形成(けいせい)する。

3-2 文脈イメージ/イメージ体の大きな特徴は、無機的な増殖、つまり複製/コピーである。この無機的な増殖のプロセスにおいて、純粋思考は働いていない。

3-3 AI/人工知能は、文脈イメージ/イメージ体を生み出すことはできる。いずれにしても、それは無機的な増殖、複製/コピーの大量生産であり、なんら新しいものを生み出さない。

3-4 AI/人工知能は、純粋思考と同質のものとは成り得ない。そこに、生命が宿っていないからである。この場合、”生命” とは、 ”霊/精神” に他ならない。

 

4 たとえば、AI/人工知能によって生み出された文脈イメージ/イメージ体、さらにそれらの複製/コピーを媒介にして、人間が純粋思考を成すことは可能であろうか?

4-1 AI/人工知能のアーリマン/ルシファー性、非霊性(ひれいせい)、無機性(むきせい)を見抜き、それに依存/執着し過ぎなければ、可能性はある。

4-2 つまり、人間次第ということである。その人間の内に、純粋思考が働いていなければ、彼はアーリマン/ルシファーの誘惑に負けることになる。だが、彼の魂の力が十分に強くなっていれば(高次の自我が目覚めていれば)、彼はそのような誘惑に打ち克つことができる。いずれにしても、彼は霊的に高貴(こうき)でなければならない。

 

4-3 ”植物の小さな種を、目の前に置いて下さい。この訓練の要点は、このような目立たない事物を前にして、正しい思考を集中的に作り上げ、この思考をとおしてある特定の感情を育てることにあります。まず自分が実際に目で見ている種を、はっきり認識して下さい。種の形や、色や、そのほかの特徴を、心のなかで描写してみて下さい。それから、地面に植えると、この種から複雑な形をした植物が現れる、と考えるのです。この植物の姿を、ありありとイメージしてみましょう。想像力のなかで、植物を作り上げてみましょう。そして以下のように思考します。

「将来、大地と光の力は、いま私が想像して思い浮かべているものを、実際の種のなかから呼び起こす。たとえば私の目の前に、人工的に作られた種があるとする。それは実物そっくりに作られているため、私の目は本物と区別することができないかもしれない。しかし大地と光の力は、この作り物の種から植物を呼び起こすことはできないのである」

このような思考を明確に作り上げ、この思考を内面的に体験するとき、私たちは正しい感情を抱きながら、さらに次のように思考することもできるはずです。

「植物の種のなかには、将来種から成長してくるものが、すでに隠された形で(植物全体の力として)存在している。人工的に本物そっくりに作られた種のなかには、この力は存在していない。しかし私の目には本物の種も、人工の種も、同じように見える。つまり本物の種には、それをまねて作られた人工の種のなかには存在していない何かが、目に見えない形で含まれているのである」

では、このような目に見えないものに感情と思考を向けてみて下さい。(*原註4)そして次のように考えて下さい。

「このような目に見えないものは、将来目に見える植物に変化する。そのとき私は目の前に、その形と色を見ることになるだろう」

そして、次のような思考のなかに没頭して下さい。

「目に見えないものが目に見えるものになる。もし私が思考することができないならば、将来目に見えるようになるものが、このように予感となって現れることはないだろう」

・・・

この訓練を正しい方法で行うと、しばらくしてから(場合によっては、それを何度も試みたあとのことになりますが)、学徒は自分自身のなかにある力を感じるようになります。この力は、新たに霊視する能力を生み出します。そのとき種は、小さな光の雲によって包まれているような姿を現します。学徒は感覚的に、霊的に、一種の炎を感じ取ります。この炎の中心部に注意を向けるときには、淡い紫色の色彩を見るときと同じような印象を受けます。炎の縁に注意を向けるときには、青みがかった色を前にしたときと同じような感じを覚えます。

このとき、学徒(がくと/神秘学徒)がそれまで見ることができなかったもの(すなわち自分自身のなかに呼び起こした思考と感情の力によって生み出したもの)が、姿を現すのです。ここに、それまで感覚的に見ることができなかったものが(つまり将来ようやく目に見えるものになる植物が)、霊的に、視覚的に、自らを開示するのです。

・・・

*原註4 - ここで、「顕微鏡を使ってより厳密に調べれば、人工の種を本物の種と区別できるのではありませんか」といって反論する人は、ここで私が述べていることの核心を理解していないことを示しているにすぎません。ここでは、厳密に感覚的な方法によって実際に何を見ることができるか、ということよりも、目で見るものをよりどころとして魂的・霊的な力を発達させることのほうが重要な意味をもっているのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 P.58~60,74)・・・ cf. ゲーテの原植物

 

5 純粋思考の特徴の一つして、有機的な増殖ということがある。デジタルなコピーではない。霊/精神が、予想もできない方向/ベクトルに向かい、・・・つまり、成長してゆくのである。そして、それまでにはなかったまったく新しいもの/霊/精神が生み出される。そして、その新しいもの/霊/精神、それは純粋思考に他ならないが、その新しきものが、また成長してゆき、さらなる新しきものを生み出す。この有機的な増殖は、終わることがない。

5-1 つまり、このような有機的な増殖の果てしないつらなりこそが、霊界/精神界の特徴である。

5-2 わたしたちはすでに、この地上の世界においても、そのようにして新しい純粋思考が生み出される様(さま)を、たとえば、芸術の出来事/歴史の中に見るのである。

 

 

6 そしてわたしたちは、出来事/歴史という事柄の本質を知ることになる。出来事/歴史というものは、霊界/精神界にその源(みなもと)を持つということ。

6-1 個々の出来事は、どれも一回限りであり、「歴史は繰り返す」などということは、あり得ないということ。この一回性/唯一性/個体性ということが、出来事の本質である。

6-2 ある出来事は、予想もしないかたちで、別の出来事へとつながってゆく。ちょうど、純粋思考が、地上的な文脈を離れて、別の純粋思考につながってゆくように。

6-3 霊/精神は、そのように・・・霊界/精神界において、全体を成す。個々の霊/精神存在が、その個別性/唯一性によって、それぞれ個であり、同時に全体(ミクロコスモス)であるのと同時に、そうした個々の霊/精神存在たちが、結びつくことによって、有機的なネットワークが生み出され、大きな全体(マクロコスモス)と成る。いずれにしても、地上の世界の時空を超越したかたちで、すべてが関連しているのである。

 

7 霊的ヒエラルキア ~ アンゲロイ、アルヒアンゲロイ、アルカイ エクスシアイ、デュナミス、キュリオテテス トローネ、ケルビム、セラフィム (cf. ルドルフ・シュタイナー)

 

7-1 ”・・・彼(ルドルフ・シュタイナー)は、伝統に拠る(よる)ことは人間を不自由にするという考えから、信仰や権威に拠らずに、自分の心眼(しんがん)・天眼(てんがん)によって、天界(てんかい)の神霊存在(天使たち)と自然界の四大元素存在(妖精たち)について、具体的に述べています。”(ルドルフ・シュタイナー『天使たち 妖精たち 精神世界の霊的存在』西川隆範訳 P.14 編訳者はしがき より)

 

7-2 霊的ヒエラルキアこそが、キリストの体であり、自由の霊/高次の自我へと向かう私たち人間も、霊的ヒエラルキアの一角を成し、・・・キリストの体の一部なのだ。

 

7-3 ”「わたし(キリスト・イエス)はまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ

、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟(おきて)を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」”(「ヨハネによる福音書」第15章)

 

8 霊/精神存在は、思考体(しこうたい)であり、人間の成す本来の思考/純粋思考と、その成り立ちにおいて変わらない。

8-1 たとえば、個々/諸々(もろもろ)の芸術作品(ex. ベートーヴェンによる交響曲やピアノソナタ、ロダンによる彫刻作品、ゲーテの『ファウスト』、ゴッホや葛飾北斎の絵画作品 etc.)は純粋思考の産物であり、一種の思考体であるが、これらの芸術作品が、鑑賞する人間の魂の空間において霊的生命を得るためには、鑑賞する人間本人の高次の自我の関与(かんよ)が欠かせない。純粋思考によって鑑賞されなければ、思考体としての個々の芸術作品は、影の思考/イメージ体/文脈イメージにとどまり続ける。

 

9 ”「・・・私たち二人(リヒャルト・ワーグナー、エンゲルベルト・フンパーディンク)が初めて霊感を主題に会話をしたのは、1880年のことでした。私(フンパーディンク)の昔の日記から、ワーグナー自身の言葉を引用してみましょう。・・・

『・・・確信しているのは、神聖なる思慮の普遍的な流れが存在し、場所を問わずこれがエーテルを震わせ、その震えを感じ取ることができる者は、誰であれ霊感を与えられているということだ。ただし、その者がこの過程に気付いており、その震えを説得力を持って表現する知識と技能を持っていればの話だ。作曲家であろうと、建築家や画家、彫刻家、発明家であろうと関係なく』。

『リヒャルト、大いなる英知の言葉ですが、より詳しく、あの神秘的な領域があなた自身にどう見えるか、何か話して頂けませんか。その領域から、あなたはご自分の霊感を引き寄せているのですから』。

『エンゲルベルト、総譜に取り組んでいる間、私はあの目に見えない領域の中で、素晴らしく心躍らせる多くの体験を重ねてきた。・・・まず、何を差し置いても信じているのは、人間の魂を全能者の中心となる力と結びつけているのは、普遍的なこの震えるエネルギーだということだ。その力から、我々すべてが自分の存在を負っている人生の根源が生じる。このエネルギーが我々を宇宙の至高の力に結びつけるが、我々は皆、その宇宙の一部だ。そうでなければ、我々自身、その力と意思を伝え合うことはできないだろう。これができる者が霊感を受けているのだ』。

『リヒャルト、あなたの感覚の性質をもっと詳しく描写できるでしょうか。あなたの表現を借りれば、この神聖な力にあなた自身を結びつける過程にある時の感覚です』。

『できるとも、エンゲルベルト。あの超越的な状態にある間、私はとてもはっきり覚えている。この状態は、真の創造的な努力すべてに不可欠なものだ。私はこの震える力と共にあり、その力は全知であり、その力を引き寄せられると感じている。そうはいっても、ただ私自身の能力の故に限られる程度までだが。』

・・・

『・・・私の考えでは、我々は皆生まれた時、あの力と(我々の誰もが)同等の関係を持っている。だが多くの事柄が我々に対して不利に作用する-遺伝や育った環境、機会、初期の教育等々。一例として、無神論的な育ち方をした場合は致命的だ。かつて無神論者が、偉大で永遠の価値を持つものを創造したことはない』。

『それは疑いなく真理ですが、リヒャルト、あなたがついさきほど触れたばかりの、あの素晴らしい、心躍らせる体験について、もっと話して下さい』。

『良かろう。創作意欲[der Schaffensdrang]が、私の魂を内なる動揺に表現を与えるよう強いていた時、私は《タンホイザー》の《バッカナール》のパリ版を書いた。私のその時受けていた霊感の度合いは、十五年前に初版のドレスデン版を作曲した時のものとはまったく異なっていた。今日《バッカナール》のあの初版の総譜は、比べてみると分かるが単調で退屈に響くだけだ』。

『どんな変化があなたの中に起こったのでしょう、リヒャルト。言い換えれば、その違いをどんな風に説明できますか?』

『〈発展〉という一語がすべてを物語る。魅了して止まないこの主題の最も興味深い特徴は発展の可能性であり、この十五年間、私はそれを感じている。《バッカナール》の後の版は、私にとって最も霊感に満ちた創作の一つだと思う』。

・・・

『・・・ヘンデルやバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンのような大作曲家は、神性を身に付けている間に心の中で何を見出したかについて、何の記録も残してくれなかった。私はある究極の事実を見出した。それは、創造するのは意志の力ではなく、幻想(ファンタジー)を想像する力だということだ。私は心の眼で、自分の楽劇の男女の主人公の明確な姿を見る。総譜の中で形をなす前に、私の心の中で主人公の明瞭な像ができ上がり、そうした心の中の表象(イメージ)をしっかり保っている間に、音楽-すなわち示導動機(ライトモティーフ)、主題、和声、律動(りずむ)、管弦楽法-が、早い話音楽の全体構造が、私の前に姿を現す。

想像力は創造性に富む力であり、私には分かるのだが、これは音楽での創造だけではなく、外的な事柄についても当てはまる。たとえば1850年に、ワイマールでリストが《ローエングリン》の公演を成功させ、弱気になっていた私を奮い立たせてくれた後で、私は《ニーベルングの指環》に着手した。四つの楽劇を作曲している間に特別誂え(あつらえ)のワーグナー劇場の明瞭な光景を思い描き、そこでこの四作品が上演できる訳だが、何と、案の定そうなった!私の想像力がこの劇場を創造したのだ。信じてくれ、エンゲルベルト、想像力が現実を生み出すのだ[die Fantasie schafft die Wirklichkeit]。これは宇宙の大いなる法則だ』。

『するとリヒャルト、伺いたいのですが、あなたはこの素晴らしい法則を発見した、想像力あふれる唯一の天才なのでしょうか?』

『音楽の領域では、おそらくそうだ。少なくともバッハやベートーヴェンも、この法則によって仕事をすることに気付いていたという記録は何も残していないが、残されている不滅の作品は、彼らがその法則を適用したことを証明している。恐らく彼らは無意識の内にそうしていたのだ。創造力あふれる偉大な天才というものは、過程を気にせず本能的に仕事をすることが良くあるからだ』。・・・」”(アーサー・M・アーベル『我、汝に為すべきことを教えん 作曲家が霊感を得るとき』吉田幸弘訳 春秋社 P.186~190)

 

9-1 「創造するのは意志の力ではなく、幻想(ファンタジー)を想像する力だということ」というワーグナーのこの言葉は、何を表しているのか。

9-2 「意志の力」とは、もちろん高次の自我の意志であり、キリスト衝動である。「幻想(ファンタジー)を想像する力」とは、ノヴァーリス/シュタイナーの「道徳的想像力/Moralische Fantasie」である。どちらも、純粋思考と同等/同格、あるいはその変態/Metamorfose/メタモルフォーゼ とみなされる。

9-3 「想像力は創造性に富む力であり、・・・これは音楽での創造だけではなく、外的な事柄についても当てはまる。」「四つの楽劇(《ニーベルングの指環》)を作曲している間に特別誂え(あつらえ)のワーグナー劇場の明瞭な光景を思い描き、そこでこの四作品が上演できる訳だが、何と、案の定そうなった!私の想像力がこの劇場を創造したのだ。・・・想像力が現実を生み出すのだ[die Fantasie schafft die Wirklichkeit]。これは宇宙の大いなる法則だ。」とワーグナーが語ったとき、彼は、純粋思考の創造性、霊/精神の創造性について、自らの体験に基づいて、語っているのである。このとき、霊/精神は、音楽と劇場を結びつけていたのである。相互に不可欠のものとして。《ニーベルングの指環》という音楽作品がなければ、バイロイト祝祭劇場はない。また、バイロイト祝祭劇場がなければ、《ニーベルングの指環》は、芸術作品として完成しない。そして、ワーグナーはその完成形のヴィジョンを見た。霊と物質において。

9-4 ワーグナーと人類にとって、これはまさに人類の星の時間であった、と言うことができる。

 

10 「〈発展〉という一語がすべてを物語る。魅了して止まないこの主題の最も興味深い特徴は発展の可能性であり、この十五年間、私はそれを感じている。」とワーグナーが語るこの部分には、特に注目すべきである。

10-1 つまり、霊感を受ける人間の高次の自我は、〈発展〉する、つまり成長するということ。ワーグナー自身が、「魅了して止まないこの主題(霊感)の最も興味深い特徴は発展の可能性であり、この十五年間、私はそれを感じている。」と語っているのである。

10-2 人間の自我は、霊/精神のベクトルに、〈発展〉する。成長するのである。

10-3 たとえばワーグナーは、ベートーヴェン、リスト、コジマ、ルートヴィヒ2世など、霊/精神のベクトルを共有する他の思考体/精神存在/人間たちとの出会いによって、自らの自我体を成長させたのである。

 

 

11 ワーグナーは語る。「神聖なる思慮の普遍的な流れが存在し、場所を問わずこれがエーテルを震わせ、その震えを感じ取ることができる者は、誰であれ霊感を与えられている」。

11-1 「神聖なる思慮の普遍的な流れ」とは、聖霊である。ロゴスと言ってもいい。「エーテル」とは、他ならぬ生命力の世界であり、その多様性において、まさに変幻自在(へんげんじざい)。霊界/精神界と物質界の間の世界、妖精たちの世界。生と死の境界、魔界(まかい)である。キリスト・イエス自身が、自らを ”死の天使” と呼んだのは、彼自身が、この境域に在って、すべての自我存在たちを見晴るかして(みはるかして)いるからである。