思考の道をゆく -5- ~ 南方熊楠へのオマージュ | 大分アントロポゾフィー研究会

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南方熊楠の論文について、以下、ウィキペデアより

 

”熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析。「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また熊楠の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。”

 

すでにエーテル界において、霊界/精神界と類似したことが起こる。

熊楠が森羅万象の事柄をトレース/追跡し、記述したとき、すでに(自然)科学の方法は採らなかったのである。

なぜならば、エーテル界の森羅万象は、(自然)科学の流儀(りゅうぎ)には、もはやおさまらないからである。

(自然)科学的には論理の飛躍(ひやく)が過ぎ、もはや学問的とはみなされない記述の仕方にならざるを得ない。

エーテル的森羅万象の世界においては、思いもかけないような関係性やつながりが、無関係に思われる複数の事柄のあいだに発見されるからである。

道は思いもかけぬ方角へ向かい、まったく予期せぬなにものか/something quite new が待ち受けている。

 

チャンスを逃すともう二度とめぐり会うことはできない。しかし追跡する者が、その機会を逃すことは、まずあり得ない。

なぜなら、・・・追跡者がそのなにものかを追い求めているかに見えて、そのなにものかの方が、彼に出会う機会をずっと待ち続けてきたのだから。

そして、出会いは起こるべくして起こる。

 

熊楠は、彼の人生の途上で起こるべくして起こったそのような出会い/遭遇(そうぐう)について、実際に起こったままを、ひとつひとつ丁寧に記述したものと考えられる。

それが、彼の論文となる。

 

そして彼は、ひとつの意味深い象徴的イメージをのこすに至る。

いわゆる ”南方マンダラ” である。

 

 

以下、ウィキペディアより

 

”1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。

概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。

熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。”

 

熊楠によるこの象徴的イメージは、ゲーテの原植物の、エーテル的森羅万象ヴァージョンであるとみなすことができる。

いずれも、透徹した霊視によって、獲得されたものである。純粋思考による追跡/トレースの産物である。

 

「それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。」

 

 観念ではなく、実体・・・

今ここに  ありのままに  実体として  展開している  世界そのもの

 

・・・さて人間は、純粋思考によって、実際のところ、何を成すのであろうか。

霊界/精神界の実相(じっそう)を追跡/トレースするのである。

追跡/トレースとは?

見る/観ることである。霊視するのである。

実際のところ、何を見る/観るのか?

霊/精神/精神存在を見る/観るのである。

彼ら精神存在は、思考体(しこうたい)として現れる。

それは、純粋思考という人間の営みと同質である。

人間は、その純粋思考において、高次の自我であり、それによってすでに、霊/精神/精神存在に他ならない。

 

”・・・イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降る(くだる)と、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」・・・”(「使徒言行録」第1章)

 

あなたは、あなたの高次の自我が、いつ目覚めるのか、知ることはできない。

それは、いまだ目覚めていない高次の自我そのものが知っている。

こっちからはわからない。向こう側に顕在(けんざい)する霊/精神のみが知る。

あなたはその向こう側に行くことができるのだが、いつ行けるのかはわからない。

だが、行ってしまえば、もはや、いつ行けるのかということは、問題ではなくなる。もう行ってるのだから。

そのとき、他ならぬ聖霊が降臨(こうりん)し、あなたは、人類の星の時間にいる。

純粋思考が賦活(ふかつ)され、霊界/精神界の実相を追跡/トレースすることが可能となる。

 

”・・・本書の記述方法そのものが、高次の世界の思考イメージを人間に伝えることをめざしています。このような記述は、ある意味において、人間が自分自身で直観するための第一歩です。なぜなら人間とは思考存在だからです。そして人間は、思考から出発するときにのみ、自分自身の認識の小道 Pfad der Erkenntnis を見出します。・・・人間が受け取る思考それ自体が、人間の思考の世界で作用し続けるような力を生み出します。・・・思考の根底にあるのは生き生きとした力です。認識する人間にとって、思考とは、霊のなかで直観的にとらえられる事象が直接姿を現したものにほかなりません。そして別の人間に伝えられるときには、このような霊的な事象の直接的な現れとしての思考はその人間のなかで、認識の果実をそれ自体のなかから生み出す萌芽として作用します。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p.183)