ゲーテの純粋思考/霊視(れいし)が、原植物/Urpflanz というものを観たとき、彼はまさしく植物の霊/Geist を観ていたのである。
霊/精神は、この地上の世界において、まさに千変万化(せんぺんばんか)に有機的に展開し、無限の多様性を表す。
鉱物界において然り(しかり)。植物界において然り。動物界において然り。そして、人間界においてまた然りである。
そうした個々の現れを、人間が一つ一つ追跡/観察し尽くすことは、不可能である。
この絶望的な不可能性に直面した人間は、(自然)科学と呼ばれる思弁(しべん)を始めた。
個々の事例を観察/追跡して、具体性/多様性を、いわゆる(自然)法則に還元してゆくのである。
個物の観察の正確さ/厳密性を追求してゆく中で、デジタルな数学の手法への依存度が高まる。
このようなデジタル化の傾向が進んで、正確な写し/コピーの量産が可能になり、無数のパターン化したデータの集積を活用する(に過ぎない)人工知能/AI と呼ばれるコンピューターが生み出されるに至る。
写し/コピーの量産とパターン化したデータ/アルゴリズムという二つの点に問題がある。
写し/コピーという文脈において、思考は働かない。
データ/アルゴリズムが、一度パターン化/自動化すると、思考が働く余地はなくなる。
つまり、そうなってくると、思考がアーリマン領域に囚われるどころか、もはや思考が消えてしまうという事態に相成る(あいなる)というわけだ。
思考が消えたとき、私たちの魂の空間には、感情だけが残される。
なぜなら、意志が目覚めていない状態なのだから。
私たちの行動の指針は、感情がもたらすという、ルシファー的恐怖世界が現出する。
過去の遺物(いぶつ)の集積、その再利用、繰り返し/反復。コピーに次ぐコピー、その氾濫(はんらん)。
デジタルデータがコピーされるだけではない。
もはや死んでいるとしか言えない種々の古い思考パターン/因習(いんしゅう)へのほとんど完全な依存と執着。
それらの古い思考パターンが、多くの人間たちによって、いわば共有されるようになり、その有様(ありさま)はまさにルシファー幻想の無機的な増殖(ぞうしょく)の様相(ようそう)を呈する。
そうした過去の遺物を介して、私たちの魂の内に感情が現れる。復讐(ふくしゅう)のように。怨念(おんねん)のように。呪い(のろい)のように。
そして、私たちはお決まりのアストラル投射を、またぞろ始めるのだ。
ネガティヴな雰囲気が増幅(ぞうふく)される。
もはや、思考の働く余地はない。
”・・・弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑(くず)を集めると、十二の籠(かご)にいっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。”(「マタイによる福音書」第14章)
ここでは、ひとつの出来事/奇跡が起こっているのである。
これが奇跡/秘蹟、霊的な出来事の記述であることを、十二という数が示しているのである。
パンが増殖している様(さま)は、デジタルデータや古い思考パターンの複製(ふくせい)/コピー/真似(まね)/模倣(もほう)による無機的な増殖とは、性質が異なる。
パンは、有機的/生命的/霊的に増殖したのである。
ゲーテの霊視した植物の霊が、この地上の世界において、これほどの多様性の豊饒を生み出しているのと原理的にはまったく同じである。
南方熊楠(みなかたくまぐす)は、この神秘のことを、森羅万象(しんらばんしょう)と呼んだ。
”イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群集に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠にいっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。”(「マタイによる福音書」第15章)
ここでも、七という数が、聖別(せいべつ)/聖体拝領(せいたいはいりょう)の奇跡を指し示しているのである。
他ならぬ神であるキリスト・イエスに、不可能なことなど何一つない。
問題は、人間がそのような奇跡を、適切/的確に観察できるかどうかである。
低次の自我には、それはできない。
高次の自我ならば、それができる。
高次の自我の為すそのような観察のことを、純粋思考と呼ぶことは適切である。
純粋思考は、この地上世界にあっては、まさしく例外的な状態である。
純粋思考は、地上のことがらをトレース/追跡するのではなく、霊界/精神界のことがらをなぞり、トレースするのだから。通常の思考ではできないことを為すのだから。
不可能を可能にする、まさに例外的な思考なのである。
さて、霊界/精神界においては、すべてが有機的につながりあい、むすびつきあって、全体を成している。
この霊界/精神界のネットワークの有様(ありさま)を、地上のことがらをもとに類推したり、霊界/精神界に地上の三次元時空をあてはめようとしたりすることはできない。
そのような行為は、まさにカテゴリーエラーの最たるものであって、聖なるものに対する冒涜(ぼうとく)と言ってもいい。アーリマン/ルシファー幻想の極北(きょくほく)である。
ただし、純粋思考を以てしても、霊界/精神界の有機的多様性の全体を、トレース/追跡し尽くすことは、人間にはできない。
たしかにそこには、絶望的なまでの限界がある。
だが、私たちは、そのことを嘆く必要などない。
なぜなら、そもそもこのトレース/追跡に、ゴールなどないのだから。
ある地点に到達したら、また先が現れる。しかも道は一本ではない。常に、絶え間なく、新しい何ものかが、出現する。まさしく創造の世界なのだ。エランヴィタール/élan vital という言葉さえ、貧しく感じられるほどに。
”さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。・・・”(「ヨハネの黙示録」第12章)
霊界/精神界の創造的な有機的豊穣(ゆうきてきほうじょう)を、純粋思考によって、トレース/追跡してゆくことには、ルシファー的な情念/情欲から完全に自由な霊的愉悦(れいてきゆえつ)が、必ず伴う。
この在りようは、芸術創造のプロセスに喩える(たとえる)ことができる。
ただし、霊界/精神界の創造主がまさに直接的に神であるのに対して、芸術創造においては人間が介在する。
"言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。"(「ヨハネによる福音書」第1章)
芸術創造のプロセスは、聖霊降臨の出来事であるとみなすことができる。
同時にこの過程は、芸術家の純粋思考によって成されるのである。
ここで芸術家をいわゆる職業芸術家と称される人間に限定するのは、まったく適切ではない。
また、芸術創造のプロセスを、既存の芸術ジャンルにのみあてはめることも、まったく適切ではない。
そうではなく、人間が生きる営みのすべてにわたって、この霊的な創造のプロセスを、見出していくこと、発見していくことこそが必要なのである。
この発見のプロセスは、そのまま純粋思考による新たな創造行為である。
そして、そのような霊的な創造の営みが、この地上の世界において、他ならぬ人間によって成されるところにこそ、私たちは、大きな意義を見出すことができる。
たとえば、ベートーヴェンの交響曲を演奏するオーケストラは、種々の楽器を備え、それらの楽器の演奏に熟達(じゅくたつ)した奏者たちと共に、その交響曲全曲をリアライズしてゆく指揮者がいる。
そのどれが欠けても、十全(じゅうぜん)なリアライズは成立しない。
ここでは、すべての創造の営みは、人間が中心となって成立している。
多種多様な楽器を制作したのも人間ならば、楽器を使って演奏しているのも人間である。
指揮者も人間である。作曲者も人間である。オーケストラという演奏形態を生み出したのも人間である。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
このヨハネによる聖句の奥深い意味を、この文脈で噛みしめることができると思う。
人間は、純粋思考によって/自らの高次の自我によって、霊界/精神界へと至ることができる。
しかし、霊界/精神界は無限であり、かつ永遠である。
だから、純粋思考を以てしても、霊界/精神界を旅し尽くすことはできない。
しかし、純粋思考によるこの霊界/精神界探訪(たんぼう)の旅において、私たちは尽きせぬ悦び(よろこび)を得る。享受(きょうじゅ)し続けることになるのである。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」とヨハネが語るのは、・・・「恵み」とは霊的有機的豊穣の悦び/喜び、そして「真理」とは純粋思考/ロゴス/高次の自我である。
”そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、ご自分の僕(しもべ)たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」
・・・また、私にこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。・・・」”(「ヨハネの黙示録」第22章)
霊界/精神界に、地上の世界の時空のイメージをあてはめることはできない。
だから、「すぐにも起こるはずのこと」という記述を、地上的な意味で解釈することはできない。
同様に、「わたしはすぐ来る」という言葉の意味を、短絡的にとらえることもできない。
「時が迫っているからである」も同様である。
いずれにしても、これらの表現は、霊的/精神的なことがらの一回性を際立たせるのである。
起こるべくして起こるのである。そして、二度とは起こらない。
そのとき、霊界/精神界と地上の世界とがシンクロして、人類の星の時間が現れる。
そのとき、時間は語る。
~ 「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」