低次の自我は、駆け引きの世界を生きる。比較と競争に明け暮れ、いつも見返りを求める。
高次の自我は、愛/アガペーに生きる。贈与(ぞうよ)と自己犠牲(じこぎせい)。全面的受容(ぜんめんてきじゅよう)。
低次の自我は、アーリマン/ルシファー。
高次の自我は、高次の霊的ヒエラルキア/キリスト。
低次の自我は、イメージ体/ドッペルゲンガー。
高次の自我は、霊我(マナス)/生命霊(ブッディ)/霊人(アートマン)。
・・・・・・・・・
人間は、この地上世界に受肉して、鉱物界に降り立つと、低次の自我を纏い(まとい)、低次の自我と共に生きる。
地上の世界を生きるとは、そのような面を持つ。
他者との駆け引きの世界。他者と競争し、他者に依存し、周りに見返りを求め続ける人生だ。
そのような世俗の人生に明け暮れて、人は自らを見失う。
低次の自我/アーリマン/ルシファーが、その勢いと盛りを極める。そして、高次の自我は見えなくなる・・・だから、そのような人生の営みを、”地獄落ち”と呼ぶことに、何の憚り(はばかり)もない。
見えなくなった高次の自我は、そうした地獄の道行きを経て、密かに成長する。
強さを獲得し、カルマに新しい形態を付与する。
もちろん、高次の自我の旅は、それで終わるわけではない。
。